<前回の続き>

(「心の健康を損なわないために」の記事一覧はこちら。)

 

皆さんは今、「幸せ」ですか?

たいていの人は「幸せだ」と答えるかもしれませんが、世の中には「自分は不幸だ」と感じてしまっている人も少なからずいることでしょう。

心の健康を損なってしまうと、人はなかなか「幸せだ」と感じられなくなってしまうものです。

では、「幸せ」とは一体何でしょうか?

宗教的なアプローチを一切含まず、「幸せ」とはどのように定義できるのでしょうか。

今日はその辺りを考えてみることにしましょう。

 

<アメブロからの続きはここから>

 

20代の頃、私(久末)は「幸せとはなんだろう?」ということをずいぶん考えました。

私は、恐らく多くの日本人がそうであるように、特定の宗教を信仰したことがありません。

宗教というものを取り入れなくても、人は誰でも「幸せな人生を送りたい」と願うものです。

あるいは「自分の大切な人達」に幸せであってほしいと願うはず。

人を幸せにするものを考えると、「好きな人に愛されること」や「お金やモノが手に入ること」や「健康でいられること」などが挙げられます。

では、好きな人に愛されて、お金やモノが手に入って、健康であれば幸せでしょうか?

世の中には、これらが揃っていても「幸せ」を感じることができない人もいるのではないでしょうか。

その一方で、これらが1つも揃っていなくても「幸せだ」と感じる人もきっとたくさんいます。

同じような条件が揃っても、「幸せ」と感じる人と、そうでない人に分かれるのは何故でしょうか。

きっとそれは、「認識する力」の違いです。

 

「幸せ」というものは、「認識した人」にしかやってきません。

この世のどんなものも、「認識したもの」は「存在している」と言えますが、「認識していないもの」は「存在している」とは言えません。

「幸せ」も同様で、「人を幸せにする状況」がいくら揃っていたとしても、肝心の本人がそれを「認識」していないのであれば、幸せにはなれません。

逆に言えば、「不幸」も認識した人のものになります。

「人を不幸にする状況」がいくら揃っていても、本人がそれを認識しなければ不幸にはならないのです。

 

「幸せ」と「不幸せ」を分けるのは、「欲しいもの」の存在です。

「欲しいもの」は、自分にとって「プラスに思えるもの」であり、「自分を心地良くしてくれるもの」です。

「欲しいもの」が手に入った時には、自分の心の中に「幸せの波」が発生します。

まるで、静かな水面に石を投げ込んだ時のように、小さな波が発生します。

その「幸せの波」が発生したことを「認識」することができれば、その人は幸せになれます。

しかし、どのようなことであっても、幸せの波は「永遠に続く」というわけにはいきません。

水面に石を投げ込んだことで発生した波は、時間の経過と共に、少しずつ小さくなり、やがて消えてしまいます。

「欲しいもの」が手に入った瞬間から、しばらくの間だけ、「幸せの波」が起こるのです。

恋人が欲しくてたまらない、と思っていた人に恋人ができたとしたならば、その瞬間からしばらくは「幸せの波」が発生します。

しかし、その幸せは、ずっと同じようには続きません。

そのうち、「いて当たり前」という感覚になっていくのが人間というものです。

「欲しいもの」が手に入った時には、新鮮な気持ちで「幸せ」を認識できるのですが、人は、その幸せを忘れてしまうのです。

ところが、その幸せを思い出すときがあります。

それは、既に自分の手中にあった大切なものが失われた時です。

大切なものが失われた時には、今度は、「幸せ」とは逆の「不幸の波」が発生します。

付き合っていた恋人から一方的に別れを告げられ、恋人が自分のもとから去ってしまったとしたら、きっと大きな「不幸の波」が発生することでしょう。

それまでは「いて当たり前」の存在だったにもかかわらず、失ってみると、辛く、悲しく、苦しくなります。

人は、「大切なもの」を失ったときに、その存在が自分の中にいたことを「幸せだった」と思い出すのです。

しかし、「不幸の波」もまた、「幸せの波」と同じように、時間の経過と共に、少しずつ小さくなっていきます。

 

「欲しいもの」を手に入れた時には「幸せの波」が発生し、

「大切なもの」を失った時には「不幸の波」が発生します。

どちらも、「時間の経過」とともに小さくなっていきます。

ところが、「認識の力」が強い人は、時間が経過しても、その波を小さくせずにいられます。

「大切なもの」を実際に失わなくても、頭の中で「もしこれを失ったら」ということを想像してみるのです。

想像してみると、その瞬間に、自分の中で「不幸の波」が発生します。

ところが、それは想像の世界の話なので、現実に戻って「ああ、失っていなかった」ということを「再認識」することができれば、再び「幸せの波」が発生することでしょう。

自分が持っているものや、自分に与えられているものに対して、「あって当たり前」と思ってしまうことは多々ありますね。

「あって当たり前」と思ってしまうモノに対して、「あって良かった」と再認識すれば、その途端に「幸せ」を感じることができます。

逆に言えば、「あって当たり前」なモノの存在を認識できなければ、幸せを感じることはできません。

幸せを感じることができるのが、「それを失った後」となってしまうのは、なんとも悲しいことです。

自分が持っているモノに対して「認識する力」こそ、「幸せの源」なのだと、私は思います。

 

<続く>

 

(これまでの記事一覧はこちら。)