誰で会っても、友人や知人の訃報を受け取ると、少なからず「心」が揺さぶられるものでしょう。

「心」が揺さぶられるのは、「波」が発生しているからだと思います。

思うに、この波が「心地良い波」であるなら、そこには「幸せ」が感じられるのでしょう。

しかし、その波が「不快な波」であるなら、当然、「不幸」というものがやってきます。

 

我々は誰でも「幸せになりたい」と願います。

でも、「幸せになる」って何でしょうか?

「幸せ」という「もの」がこの世のどこかに存在して、それを手に入れる、ということでしょうか?

それとも、自分自身が「幸せ」という「状態」になる、ということなのでしょうか?

私にはどちらもピンと来ません。

「幸せ」というのは、「もの」でも「状態」でもないように思います。

では、「幸せ」とは何かでしょうか。

 

 

 

「幸せ」とは、心に生じる「波」のようなものだと思うのです。

「自分を心地よくさせるもの」があるとして、それが「自分のもの」となった瞬間、自分の中に、「幸せの波」が生じます。

それは、静かな水面に、石を投げ込むと生じるような波です。

「幸せの波」が生じているうちは、自分は幸せを感じていられます。

しかし、「幸せの波」は「波」ですから、そのうち、時間が経つうちに弱まってしまいます。

例えば、レストランなどで自分が好きな食べ物を注文し、それが目の前に運ばれてきた瞬間、「幸せの波」が発生します。

それは小さな波かもしれませんが、それでも、「幸せの波」が自分のところへやってきます。

だけれども、その波は、食べ始めてからしばらく経った頃、あるいは食べ終わってからしばらくたった頃には、だいぶ弱くなってしまいます。

「最初に欲しいものを手に入れた瞬間」に生じる波が一番大きく、あとは少しずつ弱ってしまうものです。

このような幸せの波は、実際に「欲しいものを手に入れた瞬間」だけに発生するわけではありません。

そのことを頭の中で「思い出す」ということをした時も、実際に手に入れた時ほどではないかもしれませんが、再び「幸せの波」を生じさせることができます。

「あー、昨日のハンバーグ、美味しかったなぁ」と思い出した時に、ささやかながら「幸せの波」が生じるのです。

つまり、「頭の中での認識」というものもまた、「幸せの波」を発生させるということです。

 

このことは、「不幸」についても当てはまるのではないかと思います。

自分にとって大切なものが失われた瞬間、「不幸の波」が生じ、自分を襲ってきます。

それが大切であればあるほど、不幸の波も大きくなります。

特に友人の訃報のように、人の死に関わるようなものであれば、不幸の波は、長い間、繰り返し繰り返し押し寄せてきます。心が、大きく揺さぶられます。

悲しいことに、「不幸の波」の方が、「幸せの波」よりも、弱まるのが遅いのかもしれません。

それでも、長い時間が経ち、不幸の波は落ち着いてくることでしょう。

しかし、落ち着いたと思った頃、ふとそのことをまた頭の中で「思い出す」と、その途端にまた不幸の波がやってきてしまいます。

「頭の中での認識」が、「不幸の波」を発生させてしまうのです。
再び、心が、揺さぶられてしまうのです。

 

今回、私の友人は、特に病気などを患っていたのではなく、新型コロナウィルスに感染して重症化したということでもなく、突然、亡くなったようです。突然死、というものでしょうか。

ご家族の方や、私よりももっと身近なところで彼とつながりを持っていた方にとっては、私を襲った不幸の波とは比較にならないほどの大きな波が、きっと今も強く押し寄せているのだろうと推察します。

どうか、残された皆様にとって、その不幸の波が、未来に向けて、少しでも弱まっていきますように。
そう願わずにはいられません。