今回のアメリカ旅行は、ほんの一週間ほどでしたが、非常に内容の濃い旅でした。

振り返ると、色々な思いが交錯して、過去と現在を行ったり来たり、あるいは未来に思いを馳せたりしました。

そんな中で、今回の旅を通じて感じたことが2つほどあります。

1つは「親と子」というものについて。

そしてもう1つは、「人の成長」について。

まずは、1つ目から。

今回の旅には、私の両親と妹が同行しました。

そもそも私が留学することができたのも、親のおかげと思っています。

もちろん、他にも協力してくれた人々(学校の先生方や友人たち)もいましたが、何より金銭的な問題を解決してくれた親の存在無しには留学はあり得ませんでした。

なので、私が留学していたところを親に一度見せたいという思いが私の中にずっとあったのです。

それが今回、ようやく実現することができました。

そういう意味で、このような機会をつくってくれた弟のライアンには本当に感謝しています。

そして、親と言えば、私にはアメリカのお父さんとお母さんもいるのです。

ライアンの結婚を機に、アメリカのお父さん、お母さん、ライアン、私の4人それぞれの間に、様々な思いが行き交ったように思います。

お父さんとライアン。

お母さんとライアン。

お父さんと私。

お母さんと私。

私とライアン。

どれも同じ思いではありません。

私とライアンの間の思いはともかく、「親と子」というもののつながりについて、色々と感じることができました。

親というものは、いつもそこに居て当たり前の存在、ではないのですよね。

子から見れば、いつまでもいて欲しいと思っていても、親はいつかはいなくなってしまう存在。

親から見れば、いつまでも見ていてあげたいと思っていても、子の人生を最後まで見てやることはできない。

いや、子の人生を親が最後まで見ることができてしまっては、それは「不幸」というものです。

それはまるで、新作の映画を見に行っても、途中で見るのをやめなくてはいけないようなもの。

あるいは、お気に入りの作家の小説を買ってきても、途中で読むのをやめなくていけないようなもの。

親というものは、子の人生を途中で見るのをやめなくてはならないという運命にあるのです。

今回の旅の最後の方で、アメリカのお母さんのお母さん、つまり私やライアンから見て「おばあちゃん」と一緒に食事をしました。

おばあちゃんは91歳。

お母さんは、あとどれだけの時間をおばあちゃんと一緒に過ごすことができるのでしょう?

でも、そんなことを言ったら、誰だってそうです。

私は、私の日本の親と、あとどれくらいの時間を一緒に過ごすことができるのでしょうか?

この歳になってもまだ親が元気でいてくれているのは、私には幸せなことと言えるでしょう。

同年代の友人の中には、既に親を亡くしてしまった人もいるのです。

私より若い人でも、親を亡くしてしまった人は世の中にたくさんいます。

今回の旅は、そういうことを私に強く感じさせる旅でした。

親が元気なうちに、私が留学していたところを見せてあげたい。

ホストファミリーと日本の家族を会わせてあげたい。

そういう願いが、もしかしたら、あと何年もしないうちに実現不可能になっていたかもしれないのです。

だから親が元気なうちに、今のうちに色々としておきたい、と最近の私は思うようになりました。

ところがそうは思っても、実際にすべてを叶えることは、誰にとっても難しいでしょう。

そして、親がいなくなった後で、やっぱり「あんなことやこんなことをしてあげればよかった」という思いが残ってしまうのではないかという気がします。

でも、そもそも親は、子の人生の「途中」までしかみることができないのです。

「途中」までしか見られない以上、必ずお互いに「心残り」はあるはずなのです。

あ~、でも、なんだかそんな風に考えるのは、本当は悲しい。

書いていて、悲しくなってきた。

でも、それが自然の摂理なのだとしたら、そういう悲しみすらも受け止めなくてはいけないんだな、とも思うのです。

今回の旅では、私は、アメリカの親、日本の親、そしてライアンや日本の姉や妹も、それぞれのつながりについてたくさん考えました。

心残りが必ず出てくるとしても、それでも、今できることをなるべくやろう。

改めて、そう思いました。