今回のアメリカ旅行を振り返って、私が感じたことには2つあります。

1つは前回書いた「親と子」に関すること。

もう1つは、「人の成長」についてです。

今回の旅は、弟のライアンの結婚式に招待されたのがきっかけでした。

私がライアンの家族と一緒に生活していた16歳の頃、彼は11歳、小学校6年生でした。

当時の彼は、よく言えば「子どもらしい子ども」でしたが、悪く言えば「わがままで、落ち着きがなくて、人の気持ちも考えられないようなガキんちょ!」でした(笑)

そんな彼が、先日の結婚式で再会した時には、別人のように成長していました。

「わがまま」ではなく、
「落ち着き」もあり、
「人への配慮」もすばらしい、

そういう「成熟した大人」になっていました。

単にそう見えた、というだけではなく、本当にそういう大人になっていたのです。

そうでなければ、山奥で開催される結婚式に400人もの人が祝福にかけつけたりしないでしょう。

彼が成熟した大人であり、誰から見ても魅力的な人間だからこそ、それだけの人が集まったのだろうと思います。(もちろん、奥さんも魅力的な方です!)

今やライアンも34歳。

11歳の頃と比べ、年齢と共に成長したとシンプルに考えることもできますが、そうとばかりは言えません。

世の中には、同じ34歳でも「ガキんちょ」のままの人もいるのですから。

成長する人としない人の違いを考えてみると、たぶん、一番最初に大事なことは、その本人が「成長したい」と望むことではないでしょうか。

「成長したい」と願う気持ちがあるからこそ、実際に成長することができるのです。

当然のことながら、「人の成長」には、「困難」や「辛いこと」がつきものです。

「簡単なこと」や「楽なこと」ばかりを選択していてはなかなか成長していきません。

本人が、自分で「困難」や「辛いこと」を受け止める道を「選択する」という必要があります。

そして、周りの人は結局は傍観者です。

私も教師という仕事をしていますが、結局は生徒が成長するためにできることは「傍観」することだけなのです。

せめてできることは、「お手本を示すこと」や「方法を教えること」や「理屈や理論を使って説明すること」くらいです。

最終的には、本人が選んで行動する、それ以外に成長への道はあり得ません。

思うに、11歳の頃のライアンには、「困難」や「辛いこと」を通り抜けてでも成長したいと願う部分が少なかったのではないかと思います。

アメリカのお父さんやお母さんは、「圭介(私のこと)がいなくなってから、ライアンは変わったんだよ」と私によく話してくれました。

私にはそのつもりはありませんでしたが、11歳の彼から見たら、当時の私でも大人に見えたのでしょう。

そういう私の姿を見て、きっとライアンは「自分も大人になりたい」と願ったのではないかと想像します。

さらに、私はお手本を示そうとしたわけでもありませんが、ライアンは私をはじめ、周囲の多くの「大人の人」をお手本にしながら、「困難」や「辛いこと」を乗り越えていったに違いありません。

当時の私は、大人になりきれないライアンにイライラすることもありました。

でも、11歳のライアンに、「今すぐ大人になれ」というのは無理な話なのですよね。

11歳の時に「今の時点でガキんちょなのだから、生涯ずっとガキんちょのままかもしれない」と決めつけるのは早すぎるのです。

「今はできなくても、きっといつかできるようになる」
「今は子どもでも、きっといつか大人になる」

そう信じながら、周りの人にとっては、その時が来ることをじっと「待つ」ことが必要なのですね。

先日の結婚式で、立派な大人に成長したライアンの姿を見て、「人は成長するものなんだ」と改めて考えさせられました。

私は英語教師ですから、このことを自分の生徒に当てはめると、同じ事が言えます。

人を無理矢理「成長させる」などということは、誰にもできないのですよね。

「今はできなくても、きっといつかできるようになる」

出来るようになると信じてあげて、
長い目で見てあげて、
自らがお手本となるように努力し、
そして、じっと待つ。

教師や親など、人を指導する人間には、こういうことが必要なんだなぁ、と思いました。

目の前の生徒に対して、ついつい、「今すぐ成長させたい」と焦ってしまう自分がいます。

私もまだまだ未熟。

それを受け止めながら、もっと人の成長の役に立てるように成長したい!と思うのです。

ああ、なんだ、私も「成長したい」と願っているんだ。

だったら、私も生徒も同じなんですよね。

自分に対しても、生徒に対しても、長い目で見て待つ、ということを辛抱強くやっていこうと思います。