勉強して「知識」を得る。

働いて「お金」を得る。

運動して「体力」を得る。

普通、「得る」ことは人生を豊かにしますし、人を幸福な気分にさせてくれます。

逆に、失いたくないものを「失う」ことは、人に悲しみを与え、時には人を絶望させることもあります。

だから人は「得る」ことに必死になります。

でも、世の中にある「得る」という行為は、その先に「与えるつもりがある」のか「与えるつもりがない」のかの2種類に分かれると思います。

勉強をして得た「知識」は自分だけのもの。

働いて得た「お金」は自分だけのもの。

運動して得た「体力」は自分だけのもの。

自分の人生を豊かにするために自分で努力したのだから、「得たものは自分のもの」にして何が悪い。

そういう考え方もあろうかと思いますし、私もそう思う部分は少なからずあります。

ところが、「得たものは、いつか人や社会に与える(還元する)」という考え方もあって然るべきと思います。

勉強して得た「知識」を、人や社会のために使う。

働いて得た「お金」を、人や社会のために使う。

運動して得た「体力」を、人や社会のために使う。

同じ「得る」という行為でも、いつか未来において「人や社会のために使おう」と思っていると、「得るもの」に対する思いが強くなります。

そして、実際に「人や社会のために使おう」と思ったその時になって、実は「自分がこれまでに得たものだけでは足りない」と気づくことがあります。

そう感じた人が、「やっぱり人や社会に何かを還元したい」という思いを持ったとすれば、きっとその人は、さらに強い思いを持って「もっと得たい」と思うことでしょう。

もっと勉強して、もっと知識がほしい。

もっと働いて、もっとお金がほしい。

もっと運動して、もっと体力がほしい。

「与えるために得る」ことを目指していると、「得るために得る」だけでは得られないものが得られます。

「自分には、人や社会に与えることができるものなんて1つもない」と思っている人は、自分に何ができるのかを真剣に探り切れていないだけかもしれません。

身体に障害があっても、人や社会に何かを還元しようと努力している人はたくさんいます。

もしも自分が健常者ならば、自分にできることはきっとたくさんあるはず。

年齢だって同じ。

80歳、90歳、100歳でも人や社会に何かを還元しようとしている人はいます。

障害があろうと、高齢だろうと、「人や社会に与えるために、自分には何ができるのか」を常に自問し、実行している人達が世の中にはいます。

「与えるために得る」という人は、きっと、「得るために得る」という人よりも、たくさんのものを得ているのだろうと思います。

「与えるために得る」という人は、きっと、「得るために得る」という人よりも、たくさんの「幸せ」を認識して生きているのだろうな、と思います。

<おしまい>

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