前回から少し時間が経ってしまいましたが、続きを書きます。

子供に早期から英語を身につけさせようとする試みについて、私(久末)は今のところ「両手を挙げて賛成はできない」という考えを持っています。

今日はこれまでにご紹介してきたものとは別の理由について書きます。

私は常日頃から「単なる記憶」よりも「つながりを持った記憶」の方が強いと思っており、授業中にもよく生徒達にそのように話します。

「つながりを持つ」ということは「考える」ということです。

「覚えること」と「考えること」について、私はこれまで何度かこのブログでも書いてきました。(過去記事「素直なことは、いいことだろうか?」)

他人に「考えなさい」と言うからには、私自身だって日頃から「考える人」であり続けるように意識しています。

そして、私は母国語(日本語)とは別に「英語」という外国語を話す「バイリンガル」でもあります。

私は幼少の頃から英語を学んだわけではなく、高校生頃から英語が話せるようになったわけですが、未だに「深い思考」をする際には、やはり母国語(日本語)を使ってしまいます。

私が何かを考える時、簡単なことやシンプルな発想などは「英語の方が良い」という場合もあります。

しかし、例えば、このブログでいつも書いているような「深い考察」を伴った文章を書こうと思った時には、「英語」は時々ちらほらと私の頭の中に出てきますが、それでも細部にわたって表現しようと思う時には決まって日本語が使われます。

何が言いたいかと言いますと、「深い思考には、細かな表現ができる言語能力が必要だ」ということです。

言語能力が発達するのは、当然のことながら「脳の発達」と同じで「幼少の頃」ということになります。(脳のことについては以前書きました。→記事はこちら。)

幼少の頃に、例えば、「楽しい習い事」というレベルで英語教室に通わせるというのならば、逆に母国語(日本語)の修得には影響がでないかもしれません。

ところが、結構本格的にバイリンガル育成カリキュラムを受けさせるような場合は少し注意が必要と思います。

本格的かつまともな教育プログラムならば、小さな子供は、日本国内にいながらもそのままバイリンガルになる可能性が十分にあります。

それはそれで良いのかもしれませんが、日本語と英語は言語構造がまるで異なるもの同士。

日本で生活している以上、日本語の方が強くなっていくだろうと想像できますが、そうは言ってもかなりの割合で「外国語(英語)」が脳に入ってきているとしたなら、当然、日本語の方の発達はその分弱まります。

仮に、どちらも「そこそこ話せるようになる」という感じでそのまま大人になったとしたら、「どちらも深く、細かく表現するのが苦手」ということにならないでしょうか?

もちろん、このことは私の想像の域を超えません。

ですが、本来1つの言語で発達していくところを「2つ」の言語に分散させるわけですから、その分、「深さ」が均衡されて浅くなるのではないかというのはあながち外れてはいないように思います。

大人になって「深い思考」をしようと思った時に、「どっちつかずのバイリンガル」では、深く考えようにもそれが「できない」という状況になるのではないかと心配です。

それならば、脳の発達が一番活発となる幼少の頃には、やむを得ない事情がない限り、外国語を中途半端に身につけさせようなどと余計なことはしないのが賢明だろうと思うのです。

日本語だけで育っても大人になって深い思考ができない人もいるわけですから、まずは「母国語」を深く身につけること、そして母国語を使って「深く考える力」を身につけることに専念した方が良いと思います。

大人になってから本当に必要な能力とはいったい何なのか?

親自身がそのことを真剣に考えないうちは、子供に英語を身につけさせようなどとする行為はかえって「有害」となってしまうかもしれません。

つまり「親」もまた深い思考が要求されている、ということなんですね。

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