英語はもはや「国際語」の代名詞として使われていると言っても過言ではありません。

日本では、中学校、高等学校での指導はもちろん、最近では小学校からも英語指導が始まっています。

ところが、学校で習うのは「英語」であって「英会話」ではありません。

逆に、社会人になってから多くの人が習おうとするのは「英語」ではなく「英会話」だったりします。

私は、「英会話を習う」という表現に、いつも違和感を覚えます。

なぜなら、「英語」以外の言語に関しては、「~会話を習う」という言い方は、普通はしないからです。

「韓国語を習う」とは言いますが、「韓国会話を習う」とは言いません。

「中国語を習う」とは言いますが、「中国会話を習う」とは言いません。

「フランス語を習う」とは言いますが、「フランス会話を習う」とは言いません。

同じように、「英語を習う」とは言えても、「英会話を習う」とは、本来、表現すべきではないように思うのです。

せめて「英語会話」なら分かります。

なぜ「英語」だけ、「英会話」という、特殊な表現となったのでしょうか?

ことの発端は、「英語」というものが、学校での「お勉強」を指すというところから来ているのだと思います。

学校でのお勉強としての「英語」をいくら勉強しても、「会話」となるとまるでダメ、だからお勉強としての英語以外に「英語での会話スキル」を身につける必要がある、という社会的な意識から「英会話」という言葉が生まれたのではないでしょうか。

しかし、多くの人が勘違いしていますが、「英会話」も「英語」の表現の1つなのです。

英語で「会話」をするためには、「会話の力」が必要なのではなく、「英語」そのものの基盤となる力が必要です。

つまり文を作るための「文法の知識」や「単語の知識」、さらにはそれらを適切な音で表現するための「発音の知識と技能」が必要となるのです。

私の教室(デュープラー英語学院)を訪れる人達の中には「英会話スクールでは、結局きちんとした文が作れるようにならない」と感じている人が多くいます。

「習うより慣れろ」と言われてひたすら「会話」の練習をしてきたけれど、結局行き詰まるのは「文法」を知らないということと、「発音」を正しく矯正されないということなのです。

だから私は今、声を大にして言いたいと思います。

「英会話」という、曖昧で部分的な学習をするのではなく、「英語」というものをトータルで学習するのが重要なのです、と。

このような認識が、日本人の中で広まることを切に願います。