昨夜、私(久末)シンガポールから帰国しました。

蒸し暑かったところから、急に真冬の寒さのところにやってきて、少々身体もびっくりしているところです。

シンガポールは、私の中では行く前とは印象が違っていました。

 

<アメブロからの続き>

 

行く前は、シンガポールの英語は、訛り(なまり)がきつく、とても早口で分かりにくいものだと聞いていました。

しかし、実際に言ってみると、そういう人もたまにいますが、予想以上に分かりやすかった感じがしました。

もしかしたら、私自身が「分かりにくいぞ」というイメージを先に持っていたために、「なんとか分かろう」として一生懸命聞く努力をしていたからかもしれません。

あるいは、私なりにこれまでの国際会議などの経験を通じて、「そういう英語」に慣れてきたのかもしれません。

どちらにせよ、「外国人と、英語でやりとりする」という時には、「相手の言うことを分かりたい」あるいは「相手に分かって欲しい」という気持ちを持つことがとても大切なのだということを改めて感じました。

彼らの英語は、もちろん、私が授業で教えているような「キレイな北米発音」ではないかもしれません。

それでも、「人に伝えよう」という気持ちは強くあるように感じました。

これが日本人だったらどうでしょうか?

日本人も、たいていは外国人旅行者に親切だろうと思います。

しかし、「人に伝えよう」という気持ちは、日本人はあまり強くないように思います。

それは「英語が上手ではない」ということとは別の話です。

英語が上手だろうとそうでなかろうと、「人に伝えよう」という気持ちを強く持っている人は、なんとかして英語で相手に言いたいことを伝えることができます。

日本人の中には、「人に伝えよう」という気持ちさえ十分に持つことができれば、かなりの高いレベルで英語でのやりとりが可能になる人がたくさんいるはずです。

正しい発音ではなくても、正しい英文法ではなくても、それでも「なんとか伝えよう」という気持ちがあればなんとかなります。

ところが、いくら発音や英文法が正しくても、「なんとか伝えよう」という気持ちが弱ければ、発音も英文法も役には立ちません。

 

「人に伝えよう」という気持ちを強く持つということは、何も英語に限った話ではありません。

私達が日常的に生活しながら、自分と関わる人達に、「なんとか伝えよう」という意志を持つことはとても大切なことです。

「言っても相手は理解しないだろう、だから言うだけ無駄」ということで諦めてしまっているケースは、誰にでも少なからずあるものだろうと思います。

しかし、「なんとか伝えよう」という意識が低くなりすぎてしまうと、「人に自分の考えを伝える」という練習の機会が減ってしまいます。

たいてい、どのようなことであっても「練習」によって上達するものです。

「母国語」で「人に伝える」という練習をあまりしない人は、「人に伝える」ということがあまり上手ではないかもしれません。

そして、それが母国語ならばまだしも、英語などの「外国語」となればもっと通じなくなってしまいます。

そう考えると、日本人が一番にやらなくてはならないのは、「日本語で人に自分の考えを伝える練習をする」ということのような気がします。

外国に出かけ、外国の人達に触れると、私はいつも日本人の「人に伝えよう」という意志の弱さというものを感じずにはいられません。

「英語力」というものは「発音のテクニック」「文法の理解」「単語の知識」で構成されるものかもしれませんが、これらは全て「人に伝えよう」という意志の上に成り立つものです。

日本人は「英語が下手」なのではなく、「人に伝えよう」という意志が弱い、またその練習の機会が少ない、ということなのかもしれません。

英語が上手になりたいのであれば、まずは、「日本語」を使って、身近な人達に自分の考えを「きちんと伝えよう」という意志を持って練習すべきだろうと思います。