今、世の中には情報があふれています。

人から人へ、情報が伝わっていきます。

しかし、「伝え方が下手」であったり、あるいは「受け取り方が下手」であったりすると、情報はスムーズに伝わりません。

逆に、「伝え方が上手」であり、同時に「受け取り方が上手」であれば、情報はスムーズに伝わります。

このことは、人が何かを「勉強」しようとする時にも言えることです。

勉強しようとする人自身が、「頭」を使い、情報をうまく処理することができないと、いくら時間をかけてもなかなか頭に情報が入っていきません。

しかし、勉強しようとしていることが頭に入らないのは、決して自分だけのせいではありません。

 

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勉強する側だけが一生懸命努力しても、そもそも情報を発した側の方の「伝え方」が下手だったならば、学習者の頭の中には情報がスムーズに入っていきません。

例えば、「教科書」というものがあります。

多くの人が「教科書というものはきちんと書かれているものだ」と思っているかもしれませんが、必ずしもそうとは言い切れません。

どのような科目であっても、教科書があるならば、その教科書を書いた人間がいるわけです。

そして、その人間にとって、その科目はおそらく「専門分野」なのでしょう。

しかし、「専門分野」に長けているからと言って、「伝え方が上手い」とは限りません。

教科書の中には、解読が困難なものがたくさんあります。

それは、「内容が難しいから」とは言い切れません。

そうではなく、「難しい書き方をしているから」あるいは「伝え方が下手だから」とも言えるのです。

専門性が高くなれば高くなるほど、「難しい内容を、難しい言葉を使い、難しい言い方で説明する」という傾向が見られます。

「内容が難しい」ということとは別に、「伝え方が下手」であるということが、さらに輪をかけて難しさを助長しているのです。

だから、「教科書」だけを読んで分かる、ということは当たり前ではありません。

「教科書だけでは分からないこと」がたくさんあります。

 

同様に、「授業」を行う教師についてもこのことが当てはまります。

教師の場合は、もっとひどいかもしれません。

教科書は、発行されるまでに何人もの人の目によってチェックされます。
その過程で、「分かりにくさ」というものは極力排除されることでしょう。

ところが、教師は「人間」ですし、授業というものは「ライブ」で行われます。

情報を伝えようとする教師の「伝え方」が下手であれば、聞いている学生がいくら優秀であっても情報はスムーズに伝わりません。

「数学」「物理」「化学」などの理系科目であっても、「日本史」「世界史」「現代文」「古文・漢文」といった文系科目であっても、はたまた「英語」であっても。

教師自身にとっては「専門分野」であり、それぞれ内容は熟知しているかもしれませんが、肝心の「伝え方」については、教師一人一人に個人差があります。

伝えるのが下手な教師の授業は、ハッキリ言ってつまらないし、分かりにくいことでしょう。

その一方で、伝えるのが上手な教師の授業は面白く、たいへん分かりやすいはずです。

 

そう考えると、教科書を書いたり、授業を行ったりする人が真っ先にやらなくてはならないのは「伝え方のトレーニング」ではないでしょうか。

情報を伝える際、「理論的」であり「分かりやすい」ということがとても大事です。

話している内容が支離滅裂であったり、あるいは話し方がハッキリしていなかったり、要点がぼやけていたりすれば、聞いている人は疲れてしまいます。ひどいときは居眠りしてしまうかもしれません。

居眠りする方が悪い、とも言えますが、居眠りさせる方にも責任がある、とも言えます。

学習者は、「教科書」や「教師」が完全であると思ってはいけません。

情報がなかなか頭の中に入ってこないことの原因を「自分の頭が悪いから」と簡単に諦めてはいけません。

教科書の書き方が下手ならば、教科書以外のところから情報を収集する。
教師の伝え方が下手ならば、授業以外のところから情報を収集する。

自分に情報を伝えようとしている「教科書」や「教師」に全てを委ねるのではなく、足りない部分は他のところから自分で補って学習していくのが賢い学習法だろうと思います。