昨日、ようやく国際会議が終わり、松戸に戻ってきました。

いつもは国際会議が終わると「疲れたけど、やりきった!」という達成感でいっぱいになるのですが、今回は、どうも私の中には違う感覚があります。

 

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今年は8月に別の国際会議が富山でありましたので、今年は、昨日終わった京都の国際会議とほぼ同時に2つの国際会議の業務を進めていました。

とはいえ、やはり6月、7月、8月は富山の方の国際会議に気持ちが偏りがちになってしまい、京都の方の国際会議に対する意識がやや薄くなってしまったのではないかと思っています。

8月から11月にかけては、今度は京都の国際会議に集中し始めたのですが、そもそも国際会議というものは2〜3ヵ月で準備ができるものではありません。

2年、3年も前から計画を練り、準備を重ねていく必要があるのです。

今回の京都の国際会議は、結果だけをみれば「うまく行った」と言えると思います。

大きな問題もなかったし、参加者も関係者も皆さん笑顔で会場を去って行かれたように思います。

だからと言って反省点がないわけではありません。

もっとはじめからこうしておけば良かった、ああしておけば良かった、と思う部分が、たぶん、いつもよりもたくさんあります。

というわけで、無事に国際会議が終わったのですが、私の中では少々モヤモヤが残っているところです。

さて、私の「英語教師」という側面が国際会議の運営に役に立つのと同時に、今度は「国際会議事務局」という側面が英語指導に大いに役に立つというのがデュープラー英語学院の特長でもあります。

国際会議を通じて、今回も世界の様々な国の方々と英語でコミュニケーションを取りました。

メールでもやり取りし、現場では口頭でもやり取りしました。

そして相変わらず思うのは、「我も人間、彼も人間」ということです。

自分の考えていることを人に伝えようとする時、「自分の当たり前」と「相手の当たり前」が異なることがよくあります。

「自分の当たり前」を前提にして伝えようとしても、「相手の当たり前」を想定せずにそのまま伝えると、もしかすると、相手には「全然違ったイメージ」として理解されてしまうかもしれません。

「相手の当たり前」を想定することは容易なことではありませんが、それでも「自分の当たり前」だけを前提にしてしまい、相手には違ったイメージで伝わってしまうと、結局は相手だけでなく自分自身も困った状況に陥ってしまうことでしょう。

そうならないためにも、人に何かを伝えようとする前に、「自分の当たり前を疑う」というプロセスが必要となってきます。

相手がこちらに何かを伝えようとしてきた時、もしも相手がそのようなプロセスを経て「こちらの当たり前を想定」してくれていたとしたなら、こちらはとても理解しやすいことでしょう。

その反対に、相手が「自分の当たり前」を貫いて話し始めてしまうと、こちらは正しく理解するのに苦しむ可能性があります。

相手がこちらの当たり前を想定してくれるかどうか、ということは、こちら側ではどうにもできない話です。

しかし、こちらが相手に伝える時には、少なくとも「相手の当たり前を想定する」というプロセスを取り入れることは可能です。

相手の頭のことはコントロールできませんが、自分の頭はコントロールできるはずだと思うのです。

そして、「相手の当たり前」を想定しよう、ということを自分で自分をコントロールすることができると、そういうプロセスを取り入れる前よりも遥かに容易に相手に自分の考えを伝えることができます。

国際会議という場は、そういう「相手の当たり前を想定する」ということをたくさん練習する場でもあります。

世界中の研究者が1つの場に集まって議論する。

そういう場には、1人1人が「自分にとっての当たり前」を疑い、「相手にとっての当たり前」を想定するということが求められるのです。

 

英語を学ぶということは、「単語」や「文法」や「発音」といったものだけを学ぶということではありません。

英語を学ぶということは、世界の様々な人とコミュニケーションを取り、「自分の当たり前を疑う」ということを学ぶことでもあるのです。

もっとも、これは英語などの「外国語」に限った話ではありませんね。

母国語であっても、「自分の当たり前」を通そうとすると、自分の考えていることがうまく相手に理解してもらえません。

「相手の当たり前を想定する」ということを普段から意識し、そのプロセスを取り入れる練習をしている人ほど、相手に自分の考えを伝えるのが上手であり、結局は、その人自身を助けることになるのだろうと思います。