「教える」ということには、当然、「情報を伝える」という意味が含まれますね。
自分の頭の中にある情報を、「言葉」などにして自分の「外」に出し、それを他者に「伝える」わけです。
しかし、その情報は、それを受け取った相手の頭の中できちんと「処理」されなくては意味がありません。
情報の処理の方法には、主に「記憶」と「理解」の2通りがあるように思います。
例えば、「単語の学習」に関して言えば、理解というよりは「記憶」による処理が求められます。
私が「この日本語の言葉は、英語ではこういうスペルで書かれて、こうやって発音するのだよ」と誰かに「伝えた」としても、結局、相手がそれを「記憶する」という処理をしなくては、何の役にも立ちません。
「教える」はこちらがやることですが、「記憶する」は相手がやることなのです。
また、記憶だけでなく、「理解」も同じです。
たとえば「文法の学習」に関しては、「記憶」も大事ですが、それよりも「理解」の方が大事です。
「この文法項目は、こういう名称で、こういう形で表現されて、文中ではこうやって機能して、そしてこういう意味を持つのだよ」と誰かに伝えたとしても、その誰かさんが自分の頭の中で「考え、理解する」ということをしなければ、おそらく「何も身につかない」のです。
「記憶する」や「理解する」ということは、こちらがやれることではありません。
こちらがやれることは「情報を伝える」ということだけなのです。
自分が記憶していることや理解していることを「人に伝える」ということが「教える」ということならば、それは「やりっ放し」になってしまいます。
そうではなくて、「教える」ということは、情報を受け取った相手が、自分の頭の中で「記憶」や「理解」といった処理をすることができるように「補佐する」ということまで含むのではないかと思うのです。
■教える側 → 情報を伝える
□教わる側 → 伝えられた情報を「記憶」や「理解」として処理する
■教える側 → 相手が「記憶」や「理解」ができるように補佐する
よし、では「補佐する」というところまでやろう、と思ったとします。
ところが、ここでやっぱり教師は悩みます。
「相手が記憶したり理解したりできるように補佐する」というところまでやったとしても、結局、教わる側が自分でやらなければならない部分がどうしてもあるわけです。
この部分は、いくらこちらが「補佐」しようとしても、教師の手が直接届くところではありません。
他人の頭の中は、教師だろうと誰だろうと、決して直接触れることはできないのです。
教師は、「自分で覚えなさい」とか「自分で考えなさい」と話しかけたり、あるいは自発的にそうなるような話をしたりすることしかできません。
しかし、「覚えることが苦手」だったり「考えることが苦手」だったりすれば、そう簡単にはいきません。
こちらが教えてすぐに相手が覚えたり理解したりすれば苦労はありません。
問題なのは、教えても「すぐに覚えられない、すぐに理解できない」という人の場合です。
相手がそうした処理をしやすくするために、教える側が「覚え方」を考えてあげたり、あるいは「説明の仕方」を変えてみたりするわけですが、そうやって、教わる側にとって「楽」になるようにしていくと、今度は却って相手の記憶力や理解力が下がる、というジレンマが生じます。
教わる側の頭の中で「処理」が行われるのに、それをしやすいように教える側が工夫をこらしていくと、相手の処理能力が下がる、ということです。
特に、教わる側が「甘ったれ」の場合には大変です。
はじめから「教えてください」という姿勢しかなく、「自分で覚えよう」とか「自分で考えよう」という意識が皆無という場合です。
そういう甘ったれた人には、こちらがいくら情報の伝え方を工夫して、覚えやすくしたり、理解しやすくしたりしても、いつまで経っても「覚えられません」「理解できません」ということになってしまうのです。
だから、教師は「教える」ということの中に、「相手を自立させる」とか「相手に自主性を持たせる」ということも含めなくてはなりません。
ふ〜、だらだらと愚痴のようなことを書いてしまいました。
「教える」ということは、まとめると、次のようなことになるのではないかと思います。
1. 情報を相手に伝える。
2. 情報を相手が覚えたり、理解したりできるように補佐する。
3. 情報を相手が覚えたり、理解したりするよう、自立心と自主性を育てる。
そしていつしか、相手が「自分で覚える、自分で考えて理解する」ということをやるようになれば、教師の仕事も完了と言えるかもしれません。なかなか完了しないのですけれどね。
そんなことを思いながら、今日も私は英語を教えています。
<おしまい>