仮に、学生が自分で英文を作ったとします。

そして、それを教師が評価しようとしたとします。

この時、出来上がった英文が「良い文」なのか「悪い文」なのかを見極めるためには、教師の方にそれなりの英語力が求められます。

同じ意味の文であっても、文には様々な表現方法があって然るべきです。

学生が作った英文が模範解答通りでなかったとしても、「表現としては良い」ということもあります。

あるいは、模範解答とは違った時に、学生が「どうしてこれではダメなのか?」と疑問に思うこともあるでしょう。

模範解答と違った英文を学生が書いてきた時に、「良い」や「悪い」といったことを適切に判断し、ダメな場合には何がどうダメなのかをきちんと説明するためには、教師が高い英語力を持っている必要があります。

しかし、当然ながら、英語教師には個人の能力差があります。全ての英語教師が高い英語力を持っているとは限らないのです。

同じ学校の中、あるいは同じ学年の中に複数の英語教師がいたとしたら、彼等の英語力には少なからず能力差があるはずです。

その中でも高い英語力を持つ教師ならば、学生が作った英文に対して適切に評価したり説明したりできるかもしれません。

しかし、それほど高い英語力を持たない教師にはそれができません。そういう教師が、残念ながら学校の教育の現場にはいるのです。

 

また、数の問題もあります。

一つの学年の学生数に対し、教師の数はそれほど多くはないことでしょう。せいぜい、2〜3人でしょうか。

一人の学生が一日に10個の英文を作ってきたとしたら、一人の教師が見なくてはならない英文の数は、少なくとも「数百」にもなることでしょう。

それだけの数の英文を日々添削していくことは、いくら英語力が高い教師であっても容易ではありません。

つまり、学校の授業では、学生のアウトプットを教師が受け止めきれないのです。

 

かくして、学校の現場では、学生にアウトプットを求めるような練習はあまり行われません。

それなのに、大学受験で急にアウトプットの能力を学生達に求めるというのですから、学生達も困っていることでしょう。

学校は、学校の現場で、学生達にアウトプットの練習をたくさんさせる方法を考えなくてはなりません。

そして、学生のアウトプットを受け止めきれる高い英語力を持つ教師の数を増やす努力をしなくてはなりません。

日本の英語教育には、まだまだ課題が山積みのようです。