まず、「考える」という行為は、「問題に取り組もう」とした人が行うものです。
そして、「決断する」という行為は、どのような結果になっても「自分で責任を負おう」と覚悟を決めた人が行うものです。
そして、「説明する」という行為は、「自分の考えを人に伝えたい」という意志を持った人が行うものです。
最後に、「自ら行動する」という行為は、面倒くさがらず、「未来の自分」に対して何かしらの変化をもたらそうという「勇気」を持った人が行うものです。
逆に言えば、
「問題に取り組もう」としない人は考えず、
「責任を負おう」と覚悟を決めない人は決断せず、
「自分の考えを人に伝えたい」という意志を持たない人は説明せず、
「未来の自分に何かしらの変化をもたらそう」という勇気を持たず、面倒くさがっている人は自ら行動しない、
ということになります。
そう考えたところで、ふと周りに目をやると、「考える」や「決断する」や「説明する」や「自ら行動する」といったことが「苦手だ」という人がたくさんいることに気がつきます。
うちの教室に通う中学生や高校生にも、こういうことが苦手だという生徒がたくさんいます。
どうして苦手なのか。
「生まれつき頭が良くないから」ではありません。
「そういう練習をたくさんしていないから」です。
では、どうしてそういう練習をしていないのでしょうか?
色々と原因は考えられますが、一番の原因はやはり「家庭環境」だろうと思います。
「考える」「決断する」「説明する」「自ら行動する」ということが苦手な生徒達の親を見てみると、どうやら、「親自身がしっかりしすぎている」というケースが多いような印象を受けます。
「親がしっかりしすぎている」と、何がいけないのか?
いえ、親ならば、しっかりしている方が良いと言えます。
親自身が「考える」「決断する」「説明する」「自ら行動する」ということがきちんとできるということは、とても大事なことです。
それ自体は悪いことでは決してありません。
しかし、親がしっかりしすぎていると、「考える」「決断する」「説明する」「自ら行動する」ということを親がやってしまい、これらを「子供に練習させる」ということがすっかり抜け落ちてしまうという可能性が出てきます。
「考える」「決断する」「説明する」「自ら行動する」を親ができるのは大事なことですが、これらを「子供に練習させる」こともまた大事なことです。
子供が「問題に取り組もう」とする前に、親が先に問題に取り組もうとして「考えて」しまう。
子供が自分で「責任を負おう」と覚悟を決める前に、親が先に責任を負おうとして「決断」してしまう。
子供が自分の考えを「人に伝えよう」とする前に、親が先に考え、決断してしまうので、子供の中に「説明しよう」という意志が芽生えず、あるいはその「必要性」も発生しない。または親が先に説明してしまい、「子供に説明を求める」ということを親があまりしない。
子供が「未来の自分」に対して「自ら行動」しようとする前に、親が「ああしなさい、こうしなさい」というように「行動に対する指示」を出してしまうので、子供にとっての行動の基準は「自分の意志」ではなく「誰かの指示」となってしまう。
親が子供よりもできるのは当たり前かもしれませんが、苦手なことを練習しないで放っておけば、それは「いつまでも苦手なまま」となってしまいます。
親は、あるいは教師は、自分達が「考える」「決断する」「説明する」「自ら行動する」ということを日々練習しています。その結果、当然そのことは上手になっていくことでしょう。
しかし、親や教師は、自分自身がこれらのことを練習するだけでなく、「子供」や「生徒」にもこれらのことを練習させなくてはなりません。
大人になって、自分の力でうまく生きていくために必要なこと。
中学生にもなったら、もう練習を始めることができる十分な年齢です。
まだまだ子供だ、と侮(あなど)ることなく、子供や生徒の成長の可能性を信じて、「考える」「決断する」「説明する」「自ら行動する」ということを大人達がうながしてやるべきだと思います。
<おしまい>