一般的に、「難しいことを理解している」ということは、確かに「頭が良い」の指標の1つと言えるでしょう。
しかし、「難しいことを、分かりやすい文章にして書く(あるいは話す)」ということができる人は、さらに「頭が良い」ように思えます。
普通、自分の頭の中の「理解」や「イメージ」を他人に伝えようとするならば、それらを「言葉」に置き換える必要があります。(世の中には、言葉ではなく、音楽や芸術作品として表現する人もいるでしょうが、それはそれで別の話です。)
ところが、自分の「理解」や「イメージ」を、適切な「言葉」にするだけでも難しいことがあります。
さらに、それを「文」という形にするならば、さらに難しいことをやろうとしている、と言えます。
しかも、「文」は1つではなく、いくつもの文を並べ、全体で1つの「文章」とするには、文と文のつながりなども考えなくてはなりません。
つまり、「文を作る」ということは、すなわち「考える」をせずにはできないことなのです。
しかも、単に「文章」を書けば良いのではなく、「誰が読んでも(あるいは聞いても)理解できるような、分かりやすい文章にする」ということまで気をつけたならば、さらに頭への負担は大きくなります。
そういう「頭への負担」をかけながら、その練習をたくさん繰り返していく人は、当然、「頭が良くなっていく」はずです。
自分の頭の中にある「理解」や「イメージ」を分かりやすい文章にしてアウトプットすることができる人は、逆に「人が書いた文章を読んで理解する」のもたいてい得意です。
そして、そういう能力は、勉強や仕事で役に立つだけでなく、生きていく上で、人とのコミュニケーションにおいて大変役に立ちます。
そうであるならば、「分かりやすい文章を書く」という練習は、学校の教育現場でもっとやるべきではないか、とも思うのです。
かくいう私自身は、学生時代、「作文」というものが嫌いでした。
それは、「難しい」ということを嫌がっていただけなのかもしれません。
もしも小学生、あるいは中学生くらいの頃から、「分かりやすい文章を書く」という訓練を日常的に行っていたならば、私の頭はもっと良くなっていたでしょうか。
いや、今からでも、「分かりやすい文章をたくさん書く」ということを実践していけば、きっと、きっと頭は今よりも良くなるはずです。
実際、本校のレッスンでは、中高生を対象にして、「ショートストーリーを読んだ上で、それをさらに短い要約にして書く」ということを取り入れています。
これをやり始めたばかりの生徒は、おせじにも「分かりやすい文章」は書けません。
しかし、やり続けていくうちに、誰でも少しずつ、「分かりやすい文章」が書けるようになっていきます。
「言葉の扱い」がうまくなれば、当然、学校での勉強にもプラスに働きます。
国語だけでなく、他の全ての科目も、結局は「日本語の言葉」で解説が書かれているのですから、「言葉の扱い」がうまくなれば、理解するのも楽になります。
そういう訳で、私も生徒達に負けぬよう、このブログを通じて、日々「分かりやすい文章を書く」という努力を怠らないようにしようと思います。