「平均くらいの子」ならば簡単にできることでも、「できない子」にはとても難しいと感じられることがあります。

そういうできない子を持つ「親」や「教師」が、その子に対する「愛情」やら「熱意」やらによって「なんとかこの子をできるようにさせたい!」と思ったとします。

そう思うこと自体は素晴らしいことですし、私もむしろそのように感じる方の人間なので、そこに関しては異論は全くありません。

ところが、「できるようにさせる」ためのアプローチの仕方には、親や教師によって様々ありそうです。

本稿の冒頭でも述べたように、親や教師が「できない子に合わせよう」とするのは、私は基本的には賛成できません。

それは、なぜか。

 

 

例えば、「自分のことを自分で管理する」という、勉強とは別のことがあったとしましょう。

「自分のことを自分で管理する」というのは、「予定を管理する」とか「試験の範囲を把握する」とか「自分で着る服を自分で選ぶ」とか、そういった「日常的な些細なこと」です。

「そんなことくらい、誰でも自分でできるだろう」と思った人は、おそらく常識的な人なのでしょう。

ところが、世の中には、こうしたことまでも「親」が子供に代わってやってしまっているケースが多々あります。

そういう親に「どうして自分のことを子供自身に管理させないのですか?」と尋ねると、決まって次のような答えが返ってきます。

「だって、この子にやらせてみても、この子はうまくできないんですもの。」

なるほど、「子供が自分ではできない、だから、親が代わりにやってやる」ということか、フムフム。

いやいや、そうじゃないでしょ。

そりゃあ「できないこと」は誰にでもありますよ。

だけど、「できないこと」を自分でやろうとしないうちは、きっと「いつまでもできないまま」ではないですか?

 

 

あるいは、こんな話もあります。

「うちの子は、学校の授業だけでは理解が追いつかないのです。おまけに集中力も続きません。だから、うちの子をしっかりサポートしてくれる個別指導の塾に行かせているんです。」

「できない子」だから「サポートが欲しい」ということですね。はい、分かります。

だけど、「サポート」をしっかりやってしまって、本当に良いのでしょうか?

「自分の力ではできないけれど、人のサポートがあればできる」ということを繰り返していたら、どうなるのでしょうか?

もしかしたら、いつまで経っても「人のサポートがなくてはできない」という人のままになってしまうのではないでしょうか?

「そんなことはない、そのうち、成長して、自分でできるようになるだろう。」という楽観的な見方もできるかもしれません。

ですが、敢えて悲観的な見方をするならば、そのできない子は、「人のサポートをいつでも当てにする」ような人になってしまうように思います。

その子が、大人になって、社会に出て働き始めた時、「この仕事は私には難しすぎるから、誰か、サポートしてくれないかな」などと簡単に思ったり、あるいは実際に声に出して言ったりしてしまっても良いのでしょうか?

 

「できない子」がいたとしたら、その子のレベルに合わせてやることも大事ですが、それだけではなく、「少しずつ、もう少し上のレベルに上げていく」ということも同時にやるべきです。

「平均くらいの子」が、ある時間内に「50」のことをこなせたとして、仮に「できない子」が同じ時間で「10」のことしかできなかったとしたならば、「できない子」に合わせて「10のことを与える」といったことをしてはいけません。

「10しかできないから、10を与える」のではなく、
「10しかできないから、12とか15とか、少し難しいことを与える」というアプローチが大事です。

「10」しかできない子に対し、大人達が「10」に凝縮されたものを与え続けてしまうと、いつまでもその子は「10」より多くのことをこなせるようにはなりません。

「できない子に合わせよう」ではなく、「できない子にとって、少し難しいことを与える」ことによって、少しずつその子の力を「引き上げよう」とするアプローチこそが、本当の教育なのではないかと思うのです。

<おしまい>