<前回の続き>
前回、「音読」だけで終わるのではなく、「音読」をさらに高めて「暗唱」までできるようにしてしまうと良い、と書きました。
「暗唱」までできるようになると、「ネイティブ感覚」というものが見えてきます。
「音読」の段階では、まだ外部のものとして「文字」を頼りにしています。
「文字」を見て、それを目から「インプット」して、それを「音声」として外に「アウトプット」することになります。
なお、音読の際の注意点として、「文字」を見て「音」を出しながら、同時に、頭の中で「映像」を浮かべるようにすると良いでしょう。
つまり、「文字」をインプットし、「映像」を作りだし、その両方を「音」に乗せて外に出すのです。
そうやって音読を繰り返していくと、そのうち、だんだん「口」が軽くなっていきます。
十分に口が軽くなると、「文字」から目を離しても、同じように「音」を出せるようになります。
これが「暗唱」です。
暗唱をするということは、音読の時には「外」から入れる必要のあった「文字」が、もはや自分の「中」に入り込みます。
「文字」だけではありません。
「文字」に加え、「映像」もまた、自分の頭の中に入り込みます。
つまり、自分の中にある「文字」や「映像」を浮かべながら、それを「音」としてアウトプットしていくということが「暗唱」というわけです。
「音読」の段階では「半分インプット、半分アウトプット」だったものが、「暗唱」となれば「100%アウトプット」ということになります。
このように「文字」と「映像」と「音」の3つを、すべて自分の力だけで同時にアウトプットすることが可能になると、まるで「母国語」を話しているかのような感覚を味わうことができます。
これを理解するためには、まず、私達が人に何かを伝えたい時、頭の中がどうなっているかを考えてみると良いでしょう。
おそらく、人に伝えたい内容というものは、自分の中では「1つの理解」となって、それが漠然とした「イメージ(映像)」で頭の中に広がっているはずです。
本当は、そのイメージのまま人に伝えることができれば良いのですが、テレパシーでも使えるのでない限り、それは無理です。
そこで人間は、自分の頭の中にある「イメージ(映像)」を、「言葉」に置き換えて伝える必要があります。
「言葉」というのは、「文字」や「音」です。
口頭でのやりとりでは「音」のみを伝えることになりますが、しかし、その「音」だって、母国語ならば、きっと頭の中で「文字」に変換することができるはずです。
つまり、私達が母国語を話す際は、自分の頭の中にある「イメージ」を「文字」と「音」に変えて人に伝えているのです。
「暗唱」は、これに似ているのです。
暗唱もまた、自分の中にある「イメージ」と「文字」を、「音」に変えてアウトプットするということになります。
「母国語を話す」ことと「暗唱する」こととの違いは、自分で文を作るか否かという点です。
この点を除けば、「母国語を話す」も「暗唱する」も、どちらも、「イメージ」と「文字」を「音」に乗せて外に出す、という点では同じことなのです。
だから、私達が外国語としての「英語」で「暗唱」を続けていくうちに、それは英語を母国語とする人たちが「話す」ということをする際の感覚を味わうができるのです。
世の中には「音読が良い」ということを主張している人が私の他にもたくさんいます。
しかし、「音読から、さらに暗唱までやると良い」ということまで主張している人は、あまり多くはないようです。
「音読」のレベルから「暗唱」というレベルまで引き上げることによる効果には、計り知れないものがあります。
次回は「暗唱」をすることのメリットについて、もう少し深く考えてみましょう。
<続く>