<前回の続き>

(「文法学習は必要か?」のこれまでの記事一覧はこちら。)

前回、文法書の目次を眺めながら、どこまでの文法を知ると、どれくらいまで通じるのかということを検証してみました。

今回は、「文法用語」というものを知っておく必要があるかどうか、という点について考えてみましょう。

日本人の英語学習者の中には、「文法用語」が苦手という人はたくさんいるようですね。

やれ「述語」だとか、「補語」だとか、「分詞」だとか、「目的格」だとか。

およそ日常ではお目にかかることのないような言葉がずらりと並んでいる。

そういう言葉をいちいち覚えるのが面倒くさくて、文法そのものも嫌いになってしまった、という人も多いのではないでしょうか。

さらに言えば、英語ができるようになった人が英語で会話をしている最中に、「過去分詞がどうたらこうたら」などのように文法用語を頭の中で浮かべることはほとんどないでしょう。

そうなると、「文法用語」なんて要らないのではないか、と思ってしまいますね。

ところがそうではありません。「文法用語」があるのには、理由があるのです。

「文法用語」というのは、つまりは、1つ1つの文法項目における「名前」と言えますね。

「take」という言葉が「taken」という形に変化した。

この「taken」のような形のことを「過去分詞」と言います。

「過去分詞」というのは、つまりは、こういう言葉が変化した形の「名前」のことなのです。

人は、「名前を知っているか否か」によって、頭の中でのイメージを明確に区別できたり、できなかったりします。

「名前」というものは、「見た目(映像)」と合致してはじめて意味を成します。

「名前と見た目(映像)」が合致すると、それ以外のものがすぐ近くにあったとしても、きちんとその名前のものを区別して認識することができます。

道を走る車の流れを見ながら、「名前を知っている車」が通りがかると、すぐにその車のことに気づくことができます。

例えば、「センチュリー」という車を知っていて、それがどんな見た目なのかを知っていれば、たくさんある車の中にセンチュリーがあれば、きちんと見つけることができるのです。

さらに、センチュリーという名前さえ聞けば、頭の中にセンチュリーの見た目(映像)を浮かべることができます。

ところが、仮にセンチュリーという車の実物を何度も見たことがあったとしても、センチュリーという名前と共に覚えていなければ、たくさんの車の中からセンチュリーを見つけることはできません。

名前を知らなければ、「その他おおぜい」の中に埋もれてしまい、他と区別して認識することができなくなるのです。

逆に、「名前」と「見た目(映像)」が合致していれば、その人の頭の中で、そのもののイメージを再生するのに大いに役立ちます。

また、「名前」と合致させることができるのは「見た目(映像)」だけではありません。

例えば、「におい」や「音」や「味」なども名前と合致させることができます。

つまり、「名前」を知っていれば、人の五感で感じ取ることができるものについて、「他者と区別する」あるいは「頭の中で再現する」ということができるようになるということです。

さて、話を「文法用語」に戻しましょう。

文法用語というものは「名前」です。

「過去分詞」やら、「動名詞」やら、「受動態」やら、「to不定詞」やら。

これらは、単語の「形」であることもあれば、あるいは文中で特定の「意味」を表すこともあります。

形が変わったり、何かしらの意味を表したりする、いわば「現象」というものに名前をつけたもの、それが「文法用語」なのです。

「文法用語(=名前)」と「現象(形や意味)」が合致すれば、たくさんの英文を見ながら、その文法用語の現象が現れた時に、きちんと他と区別して認識することができます。

それだけでなく、その文法用語を聞いたり、思い出したりするだけで、「こんな感じの文が作れる」ということを頭に浮かべることができます。

文法用語を使わず、「現象」だけで覚えようとすると、どうしても無理が生じます。

それは、センチュリーという名前を使わずに、その車の見た目だけで区別ができるように努力するようなものです。

仮に名前を知らずにセンチュリーを区別できるようになったとしたならば、きっとその人は、自分で勝手に「名前」をつけてしまったにちがいありません。

「火の鳥のマークの車」とか、「エライ人とかコワイ人がよく乗っている車」のような名前をつけない限りは、センチュリーという車を他と区別することはできません。

現象に名前をつける。

たったそれだけで、認識がしやすくなり、再現がしやすくなるのです。

しかも、文法用語というものは、英語学習者が共通で使っているものです。

教師も使いますし、他の英語学習者も使いますし、文法書の中、はたまた、時には辞書の中でも使われます。

そうした「共通の名前」を知って学習してくことは、名前を知ろうとせずに学習していくよりも、遥かに効率が良いと言えます。

「文法用語を覚えるのは時間の無駄だ」という主張は、おそらく、「生活の中」などで自然に言葉を覚えた人がよく言う主張だろうと思います。

しかし、生活の中で触れた言語の中から、文をつくる法則を見つけていくという作業は、途方もない時間を要します。

それこそ、何年という単位で時間が必要となります。

文法用語を知れば、文をつくる法則を学ぶのに何年もかかりません。

文法用語を悪者扱いし、積極的に学ぼうとしないのは、単に「面倒くさがっている」だけなのです。

名前を知れば、学習スピードが上がる。

そして、いったん名前を知って、頭の中でイメージが出来上がってしまえば、今度は、実際に英語を使ってコミュニケーションを取る際には、その「イメージ」だけを使えば良いのです。

その時には名前を思い出す必要はありません。

名前は、あくまでも「現象」をイメージ化し、頭の中で再現するための「入り口」として必要なのです。

だから、英語ができるようになった人は、「文法用語」をいちいち思い出しながら英語を使ったりはしないのです。

文法が苦手な人ほど、一つ一つの文法用語を丁寧に理解していくことをおすすめしま
す。

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