英語の学習には、「暗唱」が絶対的に効果的である!ということを主張するこのテーマ。

私(久末)の場合、英語圏での生活から離れて早22年。

この間、自分の日常生活の中で「暗唱」というものをしていなかったとしたら、たぶん私は、今以上の英語力を維持することは困難だったと思います。

英語圏で生活することもなく、
周囲に英語圏のネイティブスピーカーがいることもなく、
仕事で頻繁に英語を話すわけでもない。

そういう「完璧・日本人」という生活を送っている人にとって、「暗唱」こそが、自分の英語力を維持し、さらには高めてくれる学習方法なのだと強く思います。

もちろん、単語を覚えたり、文法を勉強したり、という学習も大切です。

しかし、そのどれよりも、「暗唱」という学習が最も優先されるべきだと、私は思います。

何度も書いてきましたが、暗唱は、以下の2つの点で「会話形式」の学習よりも優れています。

1.自分一人だけでできる(→日常生活で「量」を確保し、生涯継続できる)

2.ネイティブが作るのと同じレベルの文を発信できる(→「質」の高い英語になじむことができる)

このように「量」と「質」の両方を兼ね備えながら、長期的に実践することのできる外国語学習法が「暗唱」と言えるのです。

ところが、暗唱もメリットばっかりではありません。

注意しないと、暗唱による学習の「デメリット」が出てきてしまいます。

そのデメリットとは、上記の「1」に関係があります。

暗唱は「自分一人だけ」で実践することができますので、非常に「自由度」の高い学習であると言えます。

しかし、「自分一人だけ」で実践することができてしまうために、「相手の存在」を無視して実践してしまうことも可能です。

人は、目の前に「人」がいると思えばこそ、一生懸命「伝えよう」という思いを持って言葉を口から発することできるのです。

しかし、暗唱では目の前に人はいませんから、「伝えよう」という意識が低下してしまうことがあるのです。

人が人に何かを伝えるには、「伝えよう」という意識(ハート)が必要です。

人が人の言っていることを理解するにも、「理解しよう」という意識(ハート)が必要です。

同じ日本語を話す者同士でも、お互いに「伝えよう」や「理解しよう」という意識がなければ、伝えたり理解することはできません。

英語は「言語」なのですから、「伝えよう」や「理解しよう」という意識なしで学習してしまうと、結局は「人に通じない」英語しか身につかないのです。

ここで、上に挙げた「暗唱」による2つのメリットを見てみましょう。

会話方式の学習では、暗唱の2つの「メリット」は享受できません。

会話は自分だけではできませんし、常に「自分流」の英語になりがちです。

ところが、会話方式ならば、目の前に「相手」がいるわけですから、自然と「伝えよう」や「理解しよう」という意識が働きます。

一方、「暗唱」の場合は、自分の口がすっかり音を覚えてしまっていますから、「伝えよう」や「理解しよう」という意識(ハート)がなくても、口から「機械的」に音を出すことが出来てしまいます。

これを当たり前に繰り返していると、いくら暗唱が効果的な学習法法だからと言っても、そのメリットをほとんど活かすことができません。

私の教室の生徒の中にも、そういう人が結構います。

発音もきれいで、とても上手に暗唱をしているのですが、どこか「不自然」なのです。

それは、「聞いている人がいる」ということを想定しないで、「独りよがりの暗唱」を日々繰り返してしまっているからです。

「暗唱」を実践する際には、常に「聞いている人がいる」ということを想定して、その人(頭の中の想像の人)が、きちんと「理解してくれているか?」あるいは、その人にきちんと「伝わっているか?」ということに気をつけながら実践しなくてはならないのです。

「自分一人でやれる」からこそ「自分一人ではなく、聞いている人がいる」のように想定する、ということが大事なのですね。

では、そういう想定をするというのは、具体的に、頭の中で何をすべきでしょうか。

次回は、これについてもう少し詳しく説明します。