最近、私(久末)は歴史に興味があります。
中学校時代から私は社会科がどうにも好きになれなくて、テストの点数も成績もひどく悪かったのです。
地理はまだマシでしたが、歴史になると、ほとんど拒否反応が先に出てしまい、どうにも勉強しようという気にすらなりませんでした。
「歴史なんて、どうせ終わったことなんだから、今更知ってどうなる?」
などとひねくれた考え方すら持っていました。
そのせいで、高校受験の時の私の社会科の偏差値は40以下でした。
5科目での成績になると、ひどく足をひっぱる科目だったのです。
ところが、大人になるにつれて、「今のこの世の中はどうしてこうなっているんだろう?」ということを疑問に感じることがたくさん出てきました。
そして、「今の世の中」の原因ともなった「歴史」というものに目が向くようになったのです。
そこで今年の6月頃から、日本史、世界史に関する本を何冊か買って読み始めました。
まだ4ヵ月ほどですが、1冊の本を何度も繰り返す場合もあれば、まだほとんど手つかずで読み終えていないものもあります。
それでも、「歴史」のことを知っていくことが、今はなんだかとても楽しく思えます。
どうして中学時代にこの楽しさが分からなかったのだろう?
あの時にこの楽しさが分かっていれば、きっと歴史の勉強は苦痛ではなかっただろうなぁ、と思うわけです。
たぶん、学生時代の私は、「勉強の内容」と「リアルな世界」とをつなげることができなかったのだろうと思います。
「勉強は勉強」というように、あくまでも勉強する目的は「試験のため」であり、自分が生きていくリアルな世界との間につながりを見いだせなかったのです。
でも、どんなことでもそうですが、「つながりが見いだせない」ということは「意味が見いだせない」ということでもあります。
逆に言えば、「つながり」を見いだすことができれば、そこに「意味」を見いだすことができるということです。
人は「意味」を見いだしたことに対しては、自然とエネルギーを生み出して実行していくことできます。
ところが「意味」を見いだすことができないことに対しては、エネルギーを生み出すことはできず、仮にそれをやらざるを得ない状況に置かれたならばそれは「苦痛」以外の何者でもなくなってしまいます。
中学生の頃は、たいてい誰もがまだ親の保護下にあって、自分の力で生きていくということを経験していません。
だから、「学校での勉強」と「リアルな世界」につながりが見いだせなくても仕方がないかもしれません。
ところが、やがて学校を卒業し、社会に出ると、いやでも「リアルな世界」に身を置いて生きて行かなくてはなりません。
そうやって「リアルな世界」を見ていくと、学校で勉強してきたこととリアルな世界の間につながりを見出すことができるようになるんだろうと思います。
だから大人になってから、社会科に限らず、昔やったはずの勉強を「やり直し」の気持ちでもう一度やってみよう、という思いが芽生えるのは不思議ではないように思うのです。
そして、「つながり」を見出して取り組み始めたことに対しては、人はエネルギーを生み出すことができますから、学生時代よりも一生懸命になることができるのではないでしょうか。
「リアルな世界」とのつながりをもたない「勉強」というものは、とてもつまらないものだと思います。
振り返ると、中学校の同じクラスで勉強がよくできたクラスメートを見てみると、単に「記憶力が良い」ということではなく、どこか「リアルな世界」とのつながりを見出していたような、そんな印象を受けます。
もちろん、中には純粋に「記憶!」という感じで無理矢理覚え込んだ人もいたかもしれません。
でも、本当にできる人は、勉強以外のこともよく知っていたし、同い年でありながらどこか大人のような雰囲気を持っていました。
きっと「できる人」ほど勉強することの「意味」を見出していた、つまりは「(リアルな世界との)つながり」を見出していた、ということなんだろう思います。
大人になってから学生時代の勉強をやり直そうとする人は多いと思いますが、中には、勉強を始めてからしばらくすると、再び「リアルな世界とのつながり」を見失ってしまい、「勉強は勉強」という学生時代の感覚に戻ってしまう人もいます。
そんな時は、「なんでこの勉強をやり直そうと思ったんだっけ?」ということを思い出すようにすると良いと思います。
そして、「今、自分が自らやろうとしている勉強は、リアルな世界のどこにつながっていくのだろう?」ということを、もう一度見つめ直してみると良いと思います。
勉強も、仕事も、生きる意味も、すべて「リアルな世界とのつながり」を見いだすことによって、エネルギーを自家発電して取り組んでいくことができるはずです。
エネルギーが弱まった時こそ、「つながり(=意味)」を振り返ってみてはいかがでしょうか?
つながりの先が見えた途端に、それまで苦痛だったことですらも、「楽しくて、やりたくてたまらない」ものへと変わっていくかもしれません。
<おしまい>
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