<前回の続き>
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前回、「幸せは、それを認識した人のところにしかやってこない」ということを書きました。
いくら「人を幸せにする状況」が周りにあったとしても、肝心の本人がそれを認識しなければ、その人は幸せにはなれません。
「認識する力」があれば、人は周りに存在している「幸せ」を認識し、幸せを実感できるのです。
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前回、「あって当たり前」と思ってしまうモノに対して、「あって良かった」と再認識すれば、その途端に「幸せ」を感じることができる、と書きました。
現実には自分のモノとして存在しているものを、「もしも失ったら」と想像することによって、「現実には自分のモノになっている」ということを再認識できる、ということです。
このように、「認識する力」があれば、「自分が持っている大切なもの」をいつでも再認識し、そのことで「幸せ」を感じることができるのです。
ところが、同じ「認識する力」でも、使う方向を間違えてしまうと、全く逆のことが起きてしまいます。
例えば、「自分が持っていないモノ」があったとします。
自分はそれが欲しくてたまりません。
しかし、自分が持っていないからと言っても、それがないまま生きていくこともできます。
普段はそのことを思い出さないのに、ふと何かのきっかけで、「自分はそれが欲しいんだ」ということを思い出してしまうことがあったとしましょう。
その時、「想像の世界では手にしているモノ」であっても、現実に戻った途端に「ああ、やっぱりそれは自分のモノではないんだ」というように落胆してしまいます。
実際に何かを失ったわけではないのに、「自分にはない」と認識した途端、「不幸の波」が自分の中で発生してしまうのです。
あるいは、「過去に自分が失った大切なもの」があったとします。
失った直後からしばらくは、「不幸の波」が自分を襲います。
しかし、不幸の波も、幸福の波と同じように、「時間の経過」とともに、少しずつ、少しずつ弱まっていきます。
ところが、すっかり不幸の波が落ち着いた頃になって、再び「自分は大切なモノを失ったのだ」ということを思い出してしまうことがあります。
そんな時、「失う」ということが再度起きたわけではないのに、まるで「今、再び失った」と言わんばかりに不幸の波が発生してしまうのです。
人は、「自分を幸せにしてくれるもの」と「自分を不幸にするもの」に囲まれて生きています。
どちらを認識するかは、その人次第。
自分にとって「プラス」と思えることを認識できれば「幸せの波」が発生します。
逆に、自分にとって「マイナス」と思えることを認識してしまうと、「不幸の波」が発生します。
モノの見方を切り替えるのは難しいことかもしれません。
しかし、「認識すべきことを認識し、認識しない方が良いものを認識しないようにする」ということは、努力によって可能だろうと私は思います。
認識の力によって、幸せにもなれるし、不幸にもなれる。
心の健康を損なわないためには、自分の「認識の力」をうまく使えるようにする努力が必要なのではないかと思います。
<続く>
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