最近、「勉強することの意味」についてよく考えます。

子供に「なぜ勉強しなくちゃならないの?」と聞かれて答えに窮した人も多いことでしょう。

少し前まで、私(久末)の中で「こういう答えが妥当ではないか」というものがありました。

あるいは、誰かが「こういう答えもあります」ということを聞いたりしたことも何回もあります。

しかし、どれもこれも「とってつけたような理由」に過ぎないような気がしています。

たいていの答えは、「どんな知識も、大人になったら役に立つ」というものです。

本当にそうでしょうか?

大人である私が聞いても、それでは納得しません。

子供の頃に勉強した知識が全て役に立つわけではありません。

 

そもそも、私達大人は、本当に「子供は勉強しなくてはならない」と思っているのでしょうか?

「勉強」というのは、一体何なのでしょうか?

大人達自身がそういうことを深く考えもせずに、「子供は勉強しなくてはならない」だなんて言えるでしょうか?

今日は、私が考えた末に行き着いた、私なりの見解をご紹介しようと思います。

 

<アメブロからの続きはここから>

 

まず、「勉強とは何か?」というところから定義しなくてはならないように思います。

思うに、「勉強」というのは「今まで知らなかったことを知ること」ではないでしょうか。

別の言い方をするならば、「新たな情報を、自分の頭の中に入れること」です。

算数を勉強する、ということであれば「数字を使って問題を解く方法を頭の中に入れていく」ということです。

歴史を勉強する、ということであれば「歴史上の出来事を頭の中に入れていく」ということです。

「今まで知らなかった新しい情報を頭の中に入れる」ということが、いわゆる「勉強する」ということだと言えるように思います。

 

さて、そういうインプットの行為が「勉強」なのだとしたら、それを子供がやらなくてはならないのはナゼでしょうか?

ぶっちゃけ、勉強など、別にやりたくなければやらなくて良い、とも言えます。

しかし、「勉強」というものは、子供だけがやるものではありません。

大人になっても、多くの人が、日々「勉強」をしています。

例えば、会社に入れば、自分の会社の製品やサービスの内容について勉強しなくてはなりません。

あるいはそれに関連した「法律」や「条例」を勉強しなくてはならないかもしれません。

さらには社内の人達の名前や役職、あるいは一人一人の業務内容についても勉強しなくてはなりません。

はたまた、お客さんや取引先のことについても勉強しなくてはならないでしょう。

「今まで知らなかったことを頭の中に入れる」という行為は、大人になってもずっとやることです。

さらには、夜、仕事が終わった後でも、資格のための勉強だったり、外国とのやり取りに必要な英語の勉強だったり、「仕事以外の勉強」というものもあります。

会社で働く人ばかりではありません。

主婦ならば、家族に食べさせる料理の作り方を勉強しなくてはなりませんし、どこのスーパーが何曜日には何を安く売っている、といったことも勉強しなくてはなりません。

お店の店主ならば、自分が取り扱っている商品だけでなく、商売に必要な経理のことや同業他社の動向、さらには市場動向なども勉強しなくてはなりません。

人が生きていくということは、そうした「勉強」の連続になるわけです。

 

大人になっても「勉強」をしていくならば、「勉強のやり方」を子供の頃から学んでおくことはとても有意義なことではないでしょうか?

「勉強」が「新しい情報を頭の中に入れていく」ということであるならば、それは「練習」によって上達するはずです。

子供にとっての勉強は、「国語」や「算数」や「理科」や「社会」かもしれません。

得意な科目もあれば、不得意な科目もあることでしょう。

しかし、得意であれ、不得意であれ、「新しい情報を頭の中に入れていく」という練習を積極的にやった人は、それがどんどん上達するはずです。

現に、大人になって何かを勉強しようとした時に、新しい情報をわりと簡単に頭の中に入れていくことができる人というのは、たいてい子供の頃にきちんと勉強してきた人です。

逆に、子供の頃に勉強をあまりしなかった人は、大人になって、仕事や生活において「新しい情報を頭の中に入れていく」ということをしなくてはならなくなった時、とても困ります。

そういう困っている大人が、結構たくさんいるものです。

勉強することにおいて大事なことは、「知識が増える」ということではなく、「新しい知識を増やす能力を身につける」ということなのです。

例えば、古文や漢文などを勉強したとして、それが大人になってから何の役に立つでしょうか?

私から言えば、古文や漢文の知識がなくても生きていけるはずです。何の役にも立たない、と言い切ってしまっても良いかもしれません。

勉強によって得られた「知識そのもの」が有効か、有効でないか、という考え方をするならば、古文も漢文も勉強する必要はありません。

しかし、そうではなく、古文であろうと漢文であろうと、「新しい情報を頭の中に入れていく練習」であると捉えることができたならば、その行為自体には意味が生まれます。

誰でも、好きなことや得意なことは、わりと苦労せずに勉強していくことができることでしょう。

そして、嫌いなことや苦手なことは、できるだけ勉強せずにやり過ごしたくなります。

ところが、大人になると、「嫌いだ」とか「苦手だ」ということでは避けることのできない勉強が目の前に立ちふさがることもあるのです。

子供の頃から、嫌いな科目や苦手な科目であっても、自分の頭をつかって「新しい情報を頭の中に入れていく」ということをたくさん練習した人は、大人になっても、そういう場面で積極的に勉強に取り組んでいくことができるのではないでしょうか。

嫌いなことや苦手なことを避けて生きていくこともできるかもしれませんが、それらを避け続けていくことで自分の人生にとってデメリットとなることもたくさんあります。

私の教室に通う大人達の中にも、「学生時代から英語が嫌いだった」とか「苦手だった」という人がいます。

そうやって英語というものを避けて生きてきたにも関わらず、仕事や生活において、いざ「英語が必要だ」となった時、苦手な勉強を避けて来た人は困ってしまうわけです。

子供の頃に勉強で得た知識そのものが役に立つというよりも、「勉強」によって「新しい情報を頭の中に入れるのが上手くなった」ということの方が役に立つ、ということです。

そう考えると、私自身も、もっと苦手科目を積極的に勉強すべきだったな、と思います。

苦手な科目は、たいてい大人になっても苦手です。

私は、歴史上の人物の名前を覚えるのが苦手だったせいか、今でも、仕事上で関係者の名前を覚えるのに苦労しています。

「無理矢理な単純記憶」には意味がない、という理由で、そういうことに取り組んでこなかったことが、大人になってから自分に跳ね返ってきているように思うのです。

 

結論:

勉強して得た「知識」そのものは大人になってから役に立たないこともあるかもしれないが、勉強を通じて「新しい情報を頭の中に入れる」という訓練自体は大人になってから役に立つ。特に、「苦手なこと」や「嫌いなこと」に対して積極的に勉強していくことは、大人になってから必ず役に立つ。

(★この話にはまだ続きがあります。が、続きはまた今度。)