時間をうまく使う方法を考える上で、もしかしたら「一番の難関」かもしれないもの、それが「仕事の完成度」というものです。
ある「仕事」と、それをこなす「個人」には、およそ次のような関係が成立します。
「個人の能力」 × 「仕事にかける時間」 = 「仕事の完成度」
つまり、「個人の能力」が一定だとすれば、「仕事にかける時間」を長くすれば、たいていは「仕事の完成度」が高くなる、ということです。(一概にそうも言えない場合も当然ありますが、まあ、それはさておき。)
このことは同時に、「仕事の完成度」を低くすることを許容できれば、「仕事にかける時間」も少なくすることができる、ということになります。
前回までにここで書いたことを忠実に実践されている方がもしいらっしゃるなら、その方は、紙に書き出した自分の全ての仕事を眺めながら、それぞれの仕事に「どれくらいの時間がかかるか」を書き足してあると思います。
そこで、その「かかる時間」について考えてみて下さい。
そもそも、それだけの時間がかかるのは、自分が「何パーセントの完成度」を想定している場合の時間でしょうか?
常に、どの仕事も「100%」の完成度ということであれば、そのこと自体を見直す必要があります。
なぜなら、「全ての仕事が100%の完成度」である必要などないからです。
こなすべき仕事の中には、必ず、「90%」で良い仕事、「80%」で良い仕事、というように、最低限求められる完成度が「100%」でなくても良いものがあるはずです。
仕事によっては「10%」や「20%」の完成度で良い、というものもあるかもしれません。
自分がかかえている仕事の完成度を、全て「100%」に揃えようとするのは、仕事ができる人間のすることではありません。
仕事ができる人の様子を見ていると、「かなりの程度で手を抜いている」ということが分かります。
例えば、「メールの返信」を書くという場合について考えてみましょう。
今の時代、仕事で「メール」を使う人はたくさんいることでしょう。
中には、毎朝、何百通ものメールに目を通したり、それぞれに返信しなくてはならないなど、「メール漬け」の状態になっている人もいるかもしれませんね。
「メール」の返信を書く際に、「100%」の完成度を求めてしまうと、延々と時間がかかってしまいます。
気づけば、1通のメールに返信を書くのに、1時間以上もの費やしていた、などということもあり得ます。
個人の能力には差がありますから、タイピング能力や、文章構成能力、表現力、国語力など、様々な能力の高さによって、かかる時間にも個人差があるのは当然と言えるでしょう。
しかし、同じ個人で考えた時、完成度を「100%」にまで高めるのか、「70%」程度で終えるのか、「30%」程度で終えるのかによって、「かける時間」も変わってきます。
送信する相手にもよりますが、内容を慎重に書かなくてはならない場合もあります。
ちょっとした誤字脱字すら許されない場合もきっとあることでしょう。
しかし、ちょっとした誤字脱字なら、相手も「人間」である以上、許容される場合がほとんどでしょうし、また、いくら慎重に内容を考えても、相手によっては、こちらへの評価があまり変わらないということもあります。
許容されるであろう間違いに神経質になったり、あまり評価されない程度のところまで完成度を高めるのは、「時間」との対費用効果を考えると好ましくありません。
ところが、人によっては、「時間」を無視してまで、神経質なほど「誤字脱字」を気にしたり、相手が求める以上の細かい部分にまで内容を充実させようと必死になっている人がいます。
そのような人は、「自分の価値基準」に大きな偏りがあるのかもしれません。
「時間をうまく使う方法」の最初の方の記事でも書きましたが、「極端な価値観のかたより」のある人は、「仕事の完成度」に関しても同じような「こだわり」を持ってしまう傾向にあります。
時間をかけて完成させた「こだわり」も、「良質なこだわり」ならば良いのですが、「不要で不毛なこだわり」となってしまうと、なんともむなしいものです。
1つ1つの仕事の「完成度」を見直すことができるだけで、相当な時間のロスを食い止めることができるかもしれません。
しかし、そのためには、やはり「自分の価値観に極端なかたよりがないか?」ということを改めて自分に問いかけることが有効ではないかと思います。
(「時間をうまく使う方法」の記事一覧はこちら。)