今日は授業がなかったので、ちょっと飲んで来ました。
つい先日も飲む機会があり、そこで話題になったことがあります。
それは「未完成のものほど人を育てるのではないか」ということです。
未完成なものを与えられ、「完成させなさい」と言われると人は、次の2つのどちらかの感覚を持つと思います。
1.未完成のものを完成させるのは面倒くさい
2.未完成のものを完成させるのは楽しい
その未完成のものがどんなものであるかによって、あるいはその時々の状況によって、人が上記の2つのうち、どちらの感覚を持つのかは不確定と言えるでしょう。
しかし、同じもので同じ状況であっても、結局は「人」によってどちらの感覚を持つのかが異なります。
人によっては「1」のように感じる傾向が強い場合もあれば、
人によっては「2」のように感じる傾向が強い場合もあります。
それは、もしかしたら、「子どもの頃の環境」が大きく影響しているのではないでしょうか。
例えば、私(久末)は今年で40歳です。
私が子どもだったころは、与えられるおもちゃでも、プラモデルだったりラジコン模型だったり、なにかと「未完成」のものが多かったように思います。
そして、そういった「未完成」のおもちゃこそ、子どもたちは夢中になって完成させようとしたのです。
ところが、今の子ども達はどうでしょうか?
「未完成」のものよりはむしろ、ゲームソフト、ゲーム機など、「完成」されたものを与えられる方が多いように思います。
「未完成」のものを「完成」させるのは、確かに「面倒くさい」と人に感じさせる側面はあります。
しかし、それでも「未完成」のものを「完成」させていく途中の「プロセス」には、何かしら「人」を夢中にさせる要素があるようにも思うのです。
そして、子どものころに「未完成」のものをたくさん与えられた世代が大人になった今、そういう大人たちは、「仕事」として商品をなるべく「完成」されたものにしようと努力します。
しかし、大人達が「完成」された商品を子どもに与えれば与えるほど、子ども達は「未完成を完成させる」という喜びを知る機会が減ってしまうと言えるのではないでしょうか。
「未完成」のものを「完成」させる時、たとえば、プラモデルを作る時など、身近に「上手い人」がいれば、その人の技を盗もうとしたり、自分なりにうまくいくように工夫をしたりして、そのプロセスを楽しみながら、ものをつくるということがどんどん上手になっていきます。
そういう環境で育った人は、大人になって「未完成」のものに触れた時にやっぱり「完成させたい」と思い、ものをつくることに夢中になるのでしょう。
しかし、そういう機会が少なく、「完成」されたものばかりに触れていると、「未完成」のものを与えられた時に「完成させたい」と思うよりも先に、「面倒くさい」という気持ちになってしまうのではないでしょうか。
かつては、電子機器や家電製品などは、世界的にも「Made in Japan」が当たり前でした。
しかし、今は「Made in Japan」の製品は激減し、それと同時にものづくりの方向に進もうとする学生の数も減っています。
もちろん、「Made in Japan」が減ったのは生産コストなどの理由から海外で製造するメリットがあるなど、諸々の事情があるのでしょう。
それでも、若い世代が「ものづくり」の方向に進もうと思わないのは、もしかしたら、子どものころから「完成」されたものばかりに触れてきて、「未完成のものを完成させる」という喜びにあまり触れずにきたからではないでしょうか。
だとすると、今の大人は「未完成を完成させる」ことに魅力を感じていたとしても、そこを敢えて「未完成」のまま子どもに提供するということをしなければなりません。
子ども向けの商品を開発したり、あるいは教育システムを考えたりする際は、「未完成を与えて完成させる」というプロセスをもっと重視すると良いのかもしれません。
私も人に英語を教えるという立場にいますので、もしかしたら、「未完成の文法書」や「未完成のテキスト」を生徒に与えて、それを生徒自身が「完成」させるようにした方が良いのかな、と思ってしまいました。
皆さんはどう思われますか?