ここ何年かのうちに、「気づき」という言葉を使う人が多くなったように思います。

ですが、私(久末)は、この言葉に違和感を覚えます。

 

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どうして違和感を覚えるかというと、う〜ん、なんとも理由がはっきりしません。

言葉そのものに違和感があるというよりも、この言葉が使われる「背景」に違和感があるのかもしれません。

多くの場合は、「たくさんの気づきがあった」のように、何かを「悟った」というような場合に使われるようです。

しかし、「悟った」ならばまだしも、それを「気づきがあった」のように表現するのは、私には不自然に聞こえます。

「気づき」という言葉がよく使われるのは「自己啓発」や「スピリチュアル」な話などに人一倍興味を持っているような人が書いたり話したりしている場面ではないかと思います。

「自己啓発」や「スピリチュアル」な話の中で出てくる「気づき」という言葉は、単に「何かに気づいた」ということを言い換えただけの言葉ではありません。

「あ、シャツのボタンが外れていた」ということに「気づいた」というような場合には、「気づきがあった」とは言いません。

そういう日常的な些細なことではなく、「人生」において、何かしらの「悟り」に近いようなものを発見した時に「気づき」という言葉が使われるようです。

「誰かの話を聞いて、気づきがあった」という言い方を聞くと、どうにも違和感だけでなく、場合によっては嫌悪感すら感じられます。(あくまで私の個人的な感覚ですが。)

 

「気づく」というのは、何かしらの「真実」というものがあり、今までそれに「自分の意識」が向いていなかったけれど、そこに「意識が向くようになった」ということです。

「シャツのボタンが外れていた」という「真実」に対し、ある瞬間に「意識が向いた」という場合に「気づいた」と言えるわけです。

このように、「何かに意識が向く」という行為は、「考える」ということを抜きにしてできることです。

ところが、「気づき」という言葉が使われるのは、「人生における悟り」のような深い話をしている時です。

そんな深い話をしているのに、「自分で考えた」ではなく、「誰かの話を聞いて、意識が向いた」という意味とも取れるような「気づく」という言葉を使っているのが、私にはどうも違和感となってしまうのです。

「気づく」を「気づき」という「名詞」にしたこと自体にも違和感がありますが、やはり、「考える」とか「発見する」ということを「気づく」という言葉で代用したことに違和感があるのだろうと思います。

さらに言えば、「気づいた」ということであったとしても、そもそもその内容自体が「悟り」や「真理」であるような前提で「気づいた」と言っていることにも違和感があります。

「シャツのボタンが外れていた」というのは、疑いようのない「事実」ですから、そのことに「気づいた」ということならば違和感はありません。

しかし、誰かの話を聞いたりしただけで「人生における悟りに気づいた」というのは、そもそもその内容に対して「疑い」を持っていないように聞こえます。

多くの場合、「気づきがあった」と言っている内容というものは、「さらに考えていけば、見方も考え方も変わる可能性があること」ではないかと思います。

「気づきがあった」と言わずに、「今まで考えたこともないようなことを考えるきっかけとなった」とか、あるいはもっとシンプルに「ハッとさせられた」とか「ためになった」とか言えば、何の違和感もありません。

人生における「悟り」や「真理」といったものは、「これだ」という答えがズバリあるようなものではないように思います。

「気づき」という言葉を使うと、「もう気づいたのだから、これ以上、これに関しては考えることはない」と宣言しているようにも聞こえます。

自己啓発に興味があるわりに、「考える」ということを人任せにしてしまっているように聞こえる「気づき」という言葉が、私には違和感となってしまうようです。

 

<おしまい>