(*ここからは、多少口が悪くなりますが、その辺りはご容赦ください。)
「だから英語ができるようにならねえんだよ」というポイントの1つ目は、「アウトプットが雑すぎる」という点である。
生徒本人は、自分では「丁寧にやっています」と言うが、それを端から見ている教師からしたら、「全然丁寧じゃねぇよ」と言いたくなる。
これは、その生徒の元々の「性格」なのかもしれない。
元々「大雑把」な性格の人がいたとして、その人は、「数メートルの岩」をゴロゴロと転がして、「数メートル単位」で動かす、ということを普段から日常的にやっているような人なのだろう。
そういう人が、「細かくやりなさい」と言われたとして、素直に「はい、じゃあ、細かくやります」と思ったとしよう。うん、素直に応じようとするのは良い。
ところが、その人にとっての「細かく」というのは、普段の「数メートル単位」と比較して「細かくした」、となりがちだ。
つまり、「数メートル」ではなく、「数十センチ」という単位にまで落とせば、もう十分だろう、と思ってしまうのだ。
確かに、「数メートル」から「数十センチ」に変化したということは、「細かくなった」と言えるかもしれない。
しかし、指導する側が求めているのは、「数十センチ」という単位ではない。
「数十センチ」なんて、まだまだ大きい。
「数センチ」、いや、「数ミリ」、いやいや、「10分の1ミリ単位」といったところまで「細かくしなさい」ということを指導者は伝えたいのだ。
ところが、当の本人は「これでも細かくやっています」と言い張る。
生徒は「細かくやっている」と主張するが、それを教師は「それでは細かくない」と突っぱねるのだ。
一般的に、教師と生徒との間には、このような「感覚のズレ」が生じることが度々ある。
私もかつて、「自動車運転免許」を取りに教習所に通っていた時、このような現象に陥ったことがある。
止まっている車の運転席に座り、エンジンをかけ、「クラッチ」を踏み、ギアを「ロー」に入れ、「半クラッチ」の状態にしながら少しずつ「アクセル」を踏んでいき、車を発進させる、ということを練習していた時のことである。
「半クラッチ」という感覚を、その時の私は分かっていなかったのだろうと思う。だから何度も失敗した。
失敗しすぎて、「運転なんてもう嫌だ」と諦めかけたことすらある。
今の私ならば、「この辺が半クラッチだ」という感覚は分かるし、それが正しいことも分かる。
しかし、当時の私は、「半クラってのは、この辺だろ?」という感覚はあったが、それが「正しい感覚」とはだいぶかけ離れていたのだ。
正しくないから、車は正常に発進しない。
そして、何度も試行錯誤して、ようやく「正しい感覚」で「半クラッチ」に成功した時、「え!? こんなところなの?」と、半クラッチにする時の「左足の力加減」に驚いたものだ。
自分が「ここが正しい」と思っていたところよりも、遙かに床に近いところで、左足でクラッチペダルを押さえておかなくてはならなかったのだ。
「こんなところで左足でペダルを押さえておくなんて、普通無理でしょ!」と思いながら、そうは言っても、それで車が正常に発進するのだから、それ以上文句は言えなくなってしまった。
結局、自分の「感覚」の方が大雑把であり、正しい感覚は「もっと細かかった」ということである。
「細かくする」ということは、英語や運転だけでなく、何を身につけるのでも必要な感覚だと言える。
「大雑把」な人が、「普段の自分の感覚」を基準にして、「普段より細かい」というだけでは不十分なのだ。
「普段より細かい」ではなく、「正しいものがアウトプットできる」というところまで、自分の感覚を「もっともっと細かく」していかなくてはならない。
「自分の感覚が細かくない」と指導者に指摘された時に、「いや、自分はもう十分に細かい!」と反論しようとするヤツは、いつまで経っても「細かい」というレベルには到達しない。
自分の感覚を疑わない人は、「アウトプットが雑」なままとなるのだ。
「アウトプットが雑だから、英語ができるようにならねえんだよ!」ということだ。
英語ができるようになりたいんだったら、「自分の感覚を疑い、もっともっと、細かくアウトプットしていく」という努力をすれば良い。(まあ、言うは易く、行うは難し、ではあるけれど。)
<続く>