人間には、「主観」と「客観」という2つの見方があります。
「主観」とは、1人の人物が、自分から見えたものを「そのまま『真実』として捉えよう」とする見方のことです。
これは、「視覚」に関する話だけではありません。
何らかの音を聞いたり、モノに触れたり、匂いを嗅いだり、食べ物を食べたりした時に、「最初に自分が感じたこと」をそのまま「真実」として捉えようとすることも「主観」です。
あるいは、「心における感じ方」や「考え方」も同様です。
つまり、「主観」とは、「視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚」の全ての五感を通じて、あるいは「心における感じ方」や「考え方」を通じて、「最初に自分が感じたこと」が、そのまま本人にとっての「真実」となるような見方のことです。
これに対し、「客観」とは、「最初に自分が感じたこと」をそのまま「真実」として受け止めるのではなく、「自分の感じ方ではない、別の感じ方を捉えよう」とする見方のことです。
人間なら誰にでも、「最初に自分が感じたこと=真実である」という図式で物事を受け止めようとする性質があります。
例えば、目の前の物体を見て、それを「丸い」と認識したならば、それを「丸いモノである」と認識するのは当たり前でしょう。
しかし、自分から見える姿が「丸い」からと言って、その物体が本当にどこから見ても「丸い」かどうかは分かりません。
角度を変えてみたら、「丸い」ではなく「四角い」や「とがっている」といったように見えるかもしれません。
自分から見えた姿が、そのまま「真実である」とは限らないのです。
だから賢い人は、「自分からは、この物体は丸いように見えるけれど、もしかしたら、他の角度から見たら違っているかもしれない」といった具合に、自分の見方を疑い、「別の見方」を探ろうとします。
実際には、自分とその物体はどちらも動くことができず、自分からはその物体は常に「丸い」ように見えてしまいます。
そこで、自分が移動するのではなく、「自分から見える別のもの」を使いながら、「頭の中の思考力」によって、「別の角度から見たらどうなるか?」ということを想像してみます。
「自分から見える別のもの」とは、その物体が作る「影」かもしれませんし、その物体を他の角度から実際に見ている人物からの「証言」かもしれません。
「自分が見ているもの」だけをそのまま見るのではなく、「それ以外のもの」を利用し、頭の中で「別の角度から見えたらどうなるか?」ということを考え、映像を作り出すということです。
その映像は、あくまでも「思考力」によって頭の中にできあがったものなので、「真実とは異なる」かもしれません。
つまり「仮の答えの1つ」に過ぎない、ということです。
そこで賢い人は、さらに、同じ要領で、「仮の答え」を2つ、3つ、4つ、と頭の思考力によって作り上げていきます。
そうして、「複数の見方」を頭の中で揃えた上で、「どれが最も真実に近いものと言えるだろうか」と考えます。
結果的に、賢い人は、自分が動くことなく、「自分から見えたもの」をそのまま真実として受け止めることなく、より正確な答えにたどり着くことができるのです。
大事なことは一番最初です。
つまり、「自分から見えるもの」をそのまま受け止めるのではなく、それを「疑う」ということです。
最初の最初に「疑う」ということができなければ、客観的な見方もできません。
「客観」は「自分の見え方を疑う」ということがスタートとなるのです。
賢い人は、「自分から見えるもの」を疑う人であり、その結果、「思考力」によって頭の中で「客観的な映像」を作り出すことができる人です。
言い換えるならば、賢い人になるためには、「自分から見えるものを疑う」ということが必要だと言えそうです。
<続く>