ある人が、ある事柄について「これはmustだ」と思ったとします。

つまり「やらなくてはならない」という義務感が芽生えた、ということです。

ある事柄について「mustかどうか」という判断は、その人の「価値観」によって決まります。

その人の価値観、つまりは「感情」や「理性」によって、「やらなくては気が済まない」とか「やらなくては人としてダメだ」などのように思ってしまうと、なかなか「must」が小さくなっていきません。

ここで大事なことは、「物事、つねに逆の見方があり得る」ということです。

自分が「must」だと思っていることでも、逆転の発想で、「もしもそれをやらなかったらどうなる?」ということを冷静に考えていくのです。

 

例えば、仕事でメールを打つときに、誤字や脱字のない、また日本語としての間違いのない「完璧な文章」を書かなくてはならない、と思ったとします。

そういう「must」を自分の中に強く持っている人は、1つのメールを打つにも苦労します。時間もかかることでしょう。

こういう人は、言うなれば、「must」という足かせを自分で自分にはめているのです。

一方、メールを毎日たくさん打つ人にとっては、「多少の間違いも仕方がない」という割り切りがあったりします。

そういう割り切りはどこからやってくるかと言うと、「誤字も脱字も、人なら誰でもあるものだ」という、ごくごく当たり前の考え方です。

そして、万が一、誤字や脱字があったとしても、そのことでどれだけの損害や被害が発生するのか、ということを突き詰めて考えていったとします。

よーく考えてみれば、誤字や脱字によって「そんなに重大なことにはなるはずがない」という答えにたどり着きます。

このように考えることができるなら、それまで「must」だと思っていたものが「mustではない」というように変わっていくかもしれません。

「must」だと自分で思うのは何故なのか?
「must」だと思っていることを、実際にやらなかったら、「最悪の事態」として、どのようなことが起こるのか?

そのことを考えていった先に、「な~んだ、それだけのことか」というように考え方を切り替えられれば、急に「must」は小さくなります。

「can」は急激に大きくはできませんが、「must」は信じられないくらい急速に小さくすることができるのです。

ところが、そういう思考をつなげていくことができないと、人は、「目の前のmustは、絶対にmustだ」という発想に支配されてしまいます。

自分の考え方に疑いを持てない人は、いつまで経っても「must」が小さくなりません。

さらに言えば、身体が疲れていたり、ひどく悲しい目にあった後などは、「mustはmust」という考え方をなかなか変えることができません。

よくよく考えてみればたいしたことではない。

「よくよく考えてみる」ということを始めるためにも、「自分自身を疑ってみる」ということがとても大切なのです。

 

<つづく>