人は誰でもミスを犯します。

数多くの仕事をこなしていると、どんなに注意していても、どこかにミスが生じてしまいます。

そういうミスを犯したことに気がついて、迷惑をかけた人達に心から詫びたとします。

その時、こちらがあっけにとられるくらい簡単に許してくれる人もいれば、逆に追い打ちをかけるようにミス以外のところにまで話を広げて攻撃してくる人もいます。

ここで、まず最初に考えるべきは、ものの見方にはいつでも「二面性」があって然るべき、ということです。

簡単に許してくれる人は、こちらにとっては心地良く、有り難く、とても助かりますが、いつも簡単に許されていると、気づかぬうちに自分の中に「甘え」や「油断」が生じやすくなってしまうかもしれません。

一方、追い打ちをかけるように攻撃してくる人には、負い目がある分こちらも言い返すこともできず、ただただサンドバッグ状態でパンチに耐えるしかないのですが、それでも、そのことで自分自身が打たれ強くなり、鍛えられ、はたまた「次は打たれないようにしよう」と防御力や防御テクニックが上がるかもしれません。

…とまあ、こんな風に、いつも二面性で考えられるほど冷静で、客観的ならば良いのですが、体調が優れないときや疲れがたまっている時などは、どうしても冷静ではいられませんし、客観性も落ちてしまいます。

そうなると、やっぱり、こちらが心から詫びたときに「許す」ということをしてくれる人の存在は、本当に助かります。

そういう人は素敵だな、と思いますし、また人として尊敬してしまいます。

「許す」ということは、「相手の負担を受けるということ」と置き換えて考えられます。

相手のミスを受け入れる「ゆとり」が自分になければ、「許す」ということはなかなかできません。

だから、こちらのミスに対し、相手が「許す」ということをしてくれたということは、その許してくれた人自身、精神的にも、肉体的にも、あるいは経済的にも、時間的にも、いろいろな面で「ゆとり」があるのだろうな、と思うわけです。

特に、こちらのミスが大きければ大きいほど、それを「許そう」とする人には、それだけ大きな「ゆとり」が必要になります。

大きなミスを許してくれる人って、世の中にはいるんですよね。
本当に心の底から尊敬してしまいます。

では、自分自身はどうでしょうか?

日頃から、人のミスを「許そう」としているでしょうか?

「許そう」とすることができないのだとしたら、それは自分自身に「ゆとり」がないからかもしれません。

もちろん、ミスを犯した本人が「悪かった」と思っていない、ということも考えられます。そんな時は「許しを求められている」わけではないので、やっぱり「許す」ことは難しいでしょう。

ミスを犯した相手が「申し訳ない」と反省している上で、こちら側に「ゆとり」があって始めて「許す」ということができるのですね。

今の季節ならば、仕事を始めたばかりの新人さんは、たぶん、なかなか「ゆとり」は持てないでしょう。

それを見守る上司や先輩たちも、自分の仕事にいっぱいいっぱいだと、「ゆとり」は持ちにくいものです。

さらに、高齢になって、身体の機能が少しずつ衰えていくと、人はだんだん「ゆとり」が持てなくなります。

30代、40代、50代の働き盛りの年代であっても、仕事上の責任とか、家族や子供たちに対する責任とか、色々な意味で「ゆとり」が持てない状況に陥ることはよくあるでしょう。

そう考えると、世の中には、「ゆとりがある」という人の方が少ないような気がしてきます。

「ゆとり」が持てない人は、人を「許す」ことができない。

そればかりか、「ゆとり」がない人は、人を許すことができないだけでなく、自分自身が「ミス」をやってしまいがちになります。

そういう人は、今度は「人に許して欲しい」という場面が増えるわけですが、そうであるにもかかわらず、その人自身が「人を許す」ということができない。

「自分は許してほしいけど、人を許すことができない」

ゆとりがなくなると、こういう状態になっても不思議ではありません。

もし、こういう悪循環が地域全体、社会全体、国全体に広がったら、とてもギスギスした社会になってしまいますね。

だから、人を許す、という努力をしてみましょう。

人が謝ってきたら、それを受け入れる努力をしてみましょう。

そういうことができるような人に、私もなりたいと思います。

<おしまい>

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