(前回の続き)
前回、「素直な良い子」はどうして出来上がるのか?というところで終わりました。
「素直な良い子」は、稀に、生まれついてそのような性質を持っている場合もありますが、それは本当に稀と思われます。
「素直な良い子」の「親」を見てみますと、たいてい「しっかりした」人だったりします。
「しっかりした」というのは、必ずしも良い意味とは限りません。
自分の意見や価値観が「固い」と言い換えても良いかもしれません。
「固い信念」のようなものを親が強く持ち、子どもに「答え」めいた助言を与え続け、「お前は私の言う通りにしていれば良いのだ」という教育方針でいると、「素直な良い子」はそのまま受け止めます。
子どもは、幼い頃ほど「親に認められたい」「親に好かれたい」「親に嫌われたくない」「親に見放されたくない」と本能的に感じます。
言うことを聞かない子に対し、「言うことを聞かなければ、もう知らん!」と見放すようなフリをして言い聞かせようとする行為は、子どもにとっては大変な脅威となり得ます。
親に見放されたくない子どもは、「言うことを聞くから嫌いにならないで!」と泣いて親にすがります。
こういうことを繰り返すうちに、子どもは「自分で考える」よりも、「親の言うことを素直に聞く」ことに高い価値を置くようになるのではないかと思います。
もちろん、ある程度は「しつけ」の範囲として親が一方的に決めつけなくてはならないことは当然あります。
また、子どもが病気や障害などを持っている場合にも、親がきちんと管理してあげる必要もあることでしょう。
そういうことではなく、特別な事情もないのに親が「過度」に子どもの全てを決定していき、子どもに「考える余地」や「選択の自由」を与えなさすぎるのはいかがなものかと個人的には感じます。
「素直な良い子」は、生まれついてそうでない限り、親の固い信念によって、少しずつ作られていくのだろうと思います。
ただ、「素直な良い子」は、大人からみれば理想的な子どもですし、とても好感が持てる場合がほとんどです。
礼儀正しく、挨拶や返事もしっかりしていて、勉強もよくできたりします。
勉強だけでなく、芸や特技も持っていたり、性格も明るく、元気だったりします。
しかし、そういう子どもを見ると、私は「違和感」というか、何かしらの「危機感」すら覚えることがあります。
なぜなら、こういう「素直な良い子」の延長に、A君のような子どもがいるとも考えられるからです。
A君のような「与えられた答えをそのまま素直に覚えていく」というタイプの子どもがそのまま大人になると、前回述べたような「答えを誰も知らない問題」に直面した時に、「自分」で答えを見つけられず、代わりに答えを与えてくれる「他者」を求めてしまいます。
社会に出て、いざ、自分の頭で考えながら仕事をしなくてはならないような状況に置かれると、とたんにA君のようなタイプは「困惑」します。
常に誰かが「正解」を教えてくれるわけでもないし、また常に誰かが「指示」を与えてくれるわけでもありません。
社会というのは、そういうところのはずです。
A君のようなタイプは、学生時代までは、「与えられた正解」をただ覚えていくだけ、「人から指示されたこと」をただこなすだけで成功してきたものですから、人から与えられずに何かを実行することがとても苦手なのです。
ところが、「素直な良い子」だったため、そんな急激な変化にもついていこうと必死になります。
しかし、B君のように「自分の頭で考える」ようなタイプの人が簡単にこなす仕事を、A君のようなタイプはなかなかうまくこなせません。
もちろん、世の中には、A君のようなタイプこそうまくできるような仕事もありますから、そういう仕事に就くことができれば良いのかもしれません。
ただ、今の日本のような「変化」と「革新」が求められるような時代では、ますますB君のように「答えが与えられなくても、自分で答えを探し出す」というタイプの人材が重宝され、逆にA君のように「いくら作業が速くても、正解や指示が与えられないとお手上げ」となってしまう人材はあまり重宝されません。
ですが、もし、A君のような「記憶力」の良い人材が、自分の頭で「考える」ということを実践するようになったら、きっと「無敵」と言えるほどのスーパー人材となることでしょう。
私の部下に、もしA君のようなタイプが入ってきたら、きっと、「何でも答えを人からもらおうと思わず、自分で答えが何なのか考えてみなさい」と言いながら育てることでしょう。
逆にB君も、「単純に記憶していく」という力が身につけば、彼もまたスーパー人材となり得ます。
私の部下に、もしB君のようなタイプが入ってきたら、きっと、「あまりディテールにこだわらず、これはこういうものなんだと割りきって覚えていく努力をしなさい」と言いながら育てることでしょう。
どんな人も、「意識」を持って「練習」をすれば、必ず上手になるものです。
その可能性を信じることが、本人にも、教え育てる人にも必要なんだと思います。
さて、だいぶ話が長くなりましたが、「素直なことは、いいことだろうか?」というテーマで書き綴ってきました。
小さい頃から「素直な良い子」であることが、いつしか「指示を出す人がいなくては自分で何もできない人」になってしまう可能性(危険性)について示してみました。
もちろん、ここで私が書いたことは「必ずそうなる」というものではありません。
あくまでも、一つの考察にすぎません。
ただ、日々、大人に英語を教えながら、A君のように「素直」に言うことを聞こうという姿勢はあるものの、「自分で答えを見つける」ということが苦手な人が、意外に多いものだなぁ、と感じてしまうのも事実です。
英語に限らず、「何かを身につけていく」ということと、「自分で答えを見つけられるようになる」ということは、非常に、非常に密接に関係があるように思えて仕方がありません。
<おわり>