世の中には、誰が見ても読みやすいきれいな字を書く人がいます。
そういう字を見ると、こちらも気分が良くなるものです。
その一方で、誰が見ても「ん??」と思うような「読みにくい字」を書く人もいます。
しばらく考えてみても、「どういう字を書こうとしたのかさっぱり分からない」ということもあります。
そういう「読みにくい字」を書くという行為は、言わば「負担」を読み手に押しつけているようなものです。
そして、この考え方は、外国語学習にも通じるところがあります。
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「読みにくい字」は、読む側に「思考力」と「想像力」を使わせてしまいます。
「これは一体どういう字だろうか?」
「文の流れから、どういう字として読めばつながるだろうか?」
このように、「読みにくい字」というものは、読む側が考えたり、想像したりしなければ読むことができません。
ところが、「読みにくい字」は、少していねいに書いてもらえたならば、容易に「読みやすい字」に変わります。
こう言うと『そんなことはない、もともと字がヘタなんだから、仕方がない!』と反論する声も聞こえて来そうです。
しかし、意外にそうでもありません。
ほんの少し、「ていねいに書こう」という気持ちが加わるだけで、字というものは劇的に変化するものです。
「自分の字がヘタなのは自分のせいではない」という考え方を貫き、容赦なく「読みにくい字」を書いてしまうと、結局は「負担」を読み手に押しつけてしまうことになります。
もし、その「負担」を自分が先に受け、「ほんの少し時間がかかってもていねいに書こう」と意識すれば、読み手は負担を受けることなく読むことができるでしょう。
この考え方は、「外国語学習」にも通じます。
例えば、「自分の発音がヘタなのは自分のせいではない、だからヘタな発音でも仕方がないだろう」という考え方をしている人がいたとします。
そういう人は、「聞き取りにくい発音」をなんの迷いもなく発してしまうことでしょう。
しかし、その分、負担は「聞き手」に押しつけられます。
「聞き取りにくい発音」を聞いた人は、「一体、なんて言ったんだろう?」と考えたり、「文の流れから、どういう単語として解釈すればつながるだろう?」と想像しなくてはなりません。
ほんの少しでも、「ていねいに発音しよう」と心懸けてもらえたならば、聞いている人の負担は大きく軽減されるはずなのに。
相手の負担を軽減することができれば、その分、コミュニケーションはスムーズに進みます。
自分が相手に負担を押しつけてしまえば、当然、コミュニケーションはスムーズに進みません。
「聞きやすい発音」になる努力をしたり、「読みやすい文」を作る努力をしたりすれば、その分だけ、相手の負担は減ります。
「ヘタなのは仕方がない」という考え方もアリですが、その一方で、「ヘタだけれども、そのままで良いというわけではない」という考え方もアリです。
「ヘタだけれど、少し気持ちを込めて、ていねいにやろう」と心懸けるだけでも、スムーズなコミュニケーションにつながります。
「負担は先に自分が受ける」という心構えが、どんなコミュニケーションにも大事なんだろうと思います。
<おしまい>