前回の続き>

前回は「脳」の基本的な構造について説明し、その上で「なぜ、子供の頃から英語教育を始めた方が良いのか」という理由を挙げました。

しかし、前回の話はあくまでも「脳神経科学の観点から見れば」の話であって、そのことがすぐに「子供の英語教育はやるべきだ」という結論にはなりません。

「子供の方が脳の成長に合わせて身につけられる」という考え方を私は否定はしません。まさにその通りと思います。

ですが、これに対する「反論」が、私の頭の中に今の時点で「2つ」浮かんでいます。

今日はまず1つ目から。

まず、生まれてから3歳までにつくられた脳の中の「シナプス結合」や「触手(軸索&樹状突起)の形成」は、その後の人生でずっとそのまま維持されるか、というとそうではありません。

3歳から後になってから、継続して使われたものは残りますが、そのうち使われなくなってしまうようなものは残らず、消えてしまいます。

幼稚園の時には取り組んでいたことでも、小学校に上がってからやらなくなってしまうと、一時的に身につけたはずのことが失われてしまうことがあります。

これは、神経細胞が一度作り上げたシナプス結合の中で、「必要なもの」と「必要でないもの」を分け、「必要でないもの」に関してはその部分のシナプス結合を切り離していく、という機能があることに起因しています。

「必要なもの」と「必要でないもの」を分けるのは、そのシナプス結合部分に「電気信号」が頻繁に送られて来るか否かによります。

電気信号が送られて来るということは、一度覚えた学習を繰り返し、継続的に「使用している」ということになります。

ところが、一度シナプス結合が形成されて、そこに電気信号が行き交うようになったとしても、その後で継続的に電気信号が送られてこなければ、その部分のシナプスは機能しなくなります。

それどころか、シナプスの本体である神経細胞そのものも、そこに電気信号を流す必要がなくなってしまうと、細胞体そのものが死滅してしまいます。

このように、シナプス結合が無くなったり、神経細胞そのものが無くなったりしながら、「本当に必要なもの」だけが脳の中には残っていくのです。

このことを子供向けの英語教育にあてはめて考えてみましょう。

例えば、自分の子供を幼稚園の頃から英語教室に通わせていたとしましょう。

どのようなカリキュラムがあるのかはさておいて、仮に、その効果がある程度見られたとします。

親でも聞き取れないような英語を聞き取ったり、逆にとても日本人とは思えないような綺麗なネイティブのような発音をするようになったり。

一見すると、「このままバイリンガルに育つのではないか」と喜んでしまいそうです。

子供も、その教室が楽しければ良いかもしれません。

通うこと自体が楽しい、レッスンを受けること自体が楽しい、ということであれば、見ている親も嬉しいものです。

ところが、よほど魅力的な教室でない限り、子供もそのうち飽きてきてしまうかもしれません。

幼稚園のうちはまだ親に従順です。

そして小学校に上がりました。

小学校に入れば生活も変わることでしょう。

1年生、2年生のうちは、まだ親に従順かもしれません。

ところが、3年生、4年生、となってくるうちに、だんだん「今日は行きたくない」という気持ちになる日が出てきます。(もっと早い時期にそう言い出すこともあります。)

これは何も英語に限った話ではありません。

いわゆる「習い事」というものに関して言えば、子供にとっては「楽しいから自ら進んで行きたい」という時期もあれば、「楽しくないから行きたくない」という時期もあるものです。

「楽しいから行きたい」という気持ちが基本的に続いていて、時々「行きたくない」という気持ちになるくらいならまだ良いかもしれません。

ところが、基本的に「行きたくない」という気持ちの方がずっと強くあるのならば話は別です。

5年生、6年生になってくると、だんだん「自我」というものが強く出てきます。

それまで完全に親に従順だった子供も、100%完全には従順でなくなってきます。

もちろん、それが普通です。

成長するということは「自分でできることが増える」ということです。

自分でできることが増えたのなら、「自分の意志」や「自分の意見」というものだって主張するようになるでしょう。

だから「親が無理矢理やらせる」という方法が通じるのは、自我が芽生える前までと思います。

時々、3歳くらいの子供に習い事をさせておきながら「本人がやりたいと言っているから」という親がいますが、それは、「それ以外のことと比較していない」からそう言っているだけです。

だんだん成長し、自我が芽生えてくれば、「他のこと」と比較した上で、やりたいことを自分で「選ぶ」ようになります。

小学校高学年にもなれば、そういう自我も強くなる頃です。

友達と遊びに行きたい。

他の習い事をしてみたい。

家で一人で過ごしたい。

こういうことと比べた上で、それでも「英語の教室に行きたい」というのならば問題はありません。

ところが、この時期に「英語はもうやりたくない」という気持ちになったらどうなるでしょうか?

親が無理矢理継続させる?

それも1つの手です。

ですが、私ならばその手は使いたくありません。

飽きてしまったり、楽しくなかったり、無意味なことだと感じてしまったり、他のことに時間を使いたかったり。

人が何かを継続するには、本当にエネルギーが必要です。

子供自身にもエネルギーが必要ですし、また親にもエネルギーが必要です。

子供が「辞めたい」と言ってきたときに、親もまた継続させることに疲れてしまっていると、当然「じゃあ、辞めようか」という話になります。

「辞めたい」と主張する子供を説得し、子供に重要性を理解してもらい、再びやる気を出させるには、親も相当なエネルギーが必要となります。

そして、親もエネルギーが尽き、ついに「辞めてしまった」としましょう。

するとどうなるでしょうか。

「一度は身についたはずの能力」も、そのまま使わないままだとしたらだんだんと消え失せてしまいます。シナプス結合が失われて行くのです。

せっかくかけてきた時間、労力、お金、もろもろが、結局は「無駄だった」ことになってしまいます。(
もちろん、無駄になっていない部分もありますが。)

だから、やるからには「継続」させなくては意味がありません。

しかし、「継続させる環境」を与え続けることは容易ではありません。

始める時から、「継続させることの困難さ」をよく理解し、覚悟を決めておかないと、後になって親も子供も悲しい思いをすることになります。

私は昔、学習塾で小学生に英語を教えていたので、このような事例を何度も見たことがあります。

「楽しいからやる」だけでは継続できないことがある。

「必要だと思うからやる」という自我があれば、楽しくなくても継続できる。

継続すれば残る、継続しなければ残らない。

私が子供向けの英語教育に両手を挙げて賛成できないのは、このような事実を何度も目の当たりにしてきたからかもしれません。

さて、次回はもう1つの「反論」について書きます。
どうぞお楽しみに!

<続く>

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