かくいう私も、「自分のことを最優先」に考えることは多々あります。
「他者のことを考える」ということができるとしたならば、それはよほど「ゆとり」がある人ではないかと思います。
精神的なゆとり、身体的なゆとり、時間的なゆとり、経済的なゆとりなど、「ゆとり」がある人ほど、他者に対して寛容であり、他者の目線で考えることができます。
逆にゆとりがない人は、他人のことなど考えられず、自分のことに視点が偏りがちです。
ということは「ゆとり」を持つようにすることが大切だ、ということになります。
しかし「ゆとりを持つ」ということもまた、容易なことではありません。
「ゆとり」というものは、「can(できる)」から「must(しなくてはならない)」を引いた「差」のことです。
「can」の方が大きく、そこから「must」を引いた残りが、すなわち「ゆとり」となるわけです。
「100の能力」がある人が、「50のことをやらなくてはならない」となれば、ゆとりは「50」です。
逆に「100の能力」がある人が、「150のことをやらなくてはならない」となれば、ゆとりは「-50」となり、つまり、ゆとりはない、ということになります。
以前もどこかで書いたように思いますが、「can」を増やすのは簡単ではありません。
「can」は「既に持っているもの(能力、お金、時間など)」であり、これを自分の希望だけで増やすことは普通はできません。
能力にしてもお金にしても、あるいは時間にしても、「努力」によって獲得していかなくてはなりませんし、またそのための時間も必要です。
そこで、「canを高める努力」をする一方で、「mustを減らす努力」というものが重要になります。
「must」というものは、これも本ブログのどこかで書いたように思いますが、たいていは「その人の思い込み」による部分が大きいものです。
今、自分の中で「これをしなくてはならない」ということがあったとして、それは一体誰が決めたのか。
当然、自分ではない誰か(学校の教員、親、あるいは社会全体)ということもあるでしょう。
しかし、「must」を決めているのが「自分自身」であることも多々あります。
「〜しなくてはならない」と自分で決めておいて、そのことで自分の「ゆとり」を減らしてしまっている。
肝心なのは「本当に、これは必要なのだろうか?」と自問することなのですが、ゆとりを持つことができない人ほどこうした「自問」が苦手だったりします。
あー、書いているうちに、話が長くなってきてしまいました。
「自問する」とは、「自分自身に疑いを持つ」ということですが、これがうまく行かない人って、結構多いように思います。(私も含め。)
どうしてそうなのか。
ちょっと長くなったので、続きはまた次回。
どうぞお楽しみに!
<続く>