昨日のブログでは「バレーボール」という言葉についてご紹介しました。

私(久末)自身、この単語が通じなくて困ったという経験があります。

その経験というのは…

 

<アメブロからの続きはここから>

 

私が高校時代にアメリカに留学して間もない頃のことでした。

学校のクラスメートがホストファミリーの家まで遊びにきてくれたのです。

これから一緒の学校に通うのに、何人かでも顔を合わせておいた方が学校生活に溶け込みやすいだろうとのホストファミリーの心遣いでした。

アメリカ人の高校生何人かが、私を取り囲っていくつか質問をしてきました。

「お前は何かスポーツをやるのか?」

私は中学時代は、一応バレーボール部に所属していたので、そのまま「I play volleyball.」と返しました。

しかし、まわりの高校生は皆、「You play what?」と聞き返してきます。

私は何度も「バレーボール」と答えたのですが、全然分かってもらえませんでした。

と、その時、ホストファミリーの一人息子のRyanが現れました。

Ryanは当時小学6年生でした。

身長も、私よりは30cm近くは低く、私にとってはまるで小さな弟ができたような感じでした。

Ryanは、私が「バレーボール」と発音したのを聞いて、「Oh, he plays volleyball!」と答えてくれたのです。

それを聞いてクラスメートも全員が「ああ、そうなんだ」と納得のいった様子です。

ところが、私には不思議でなりませんでした。

どうして、Ryanには通じて、他の人には通じなかったんだろう?

同じアメリカ人なのに、通じる人と、通じない人がいる、という不思議な体験を、私はこの時初めてしたのです。

実は同じような経験を、この後も何度かしました。

「発音が悪いから通じない」という一言では片付けることができない事実があります。

ひどい発音であろうと、通じてしまうこともあるのです。

なぜ、通じる人と通じない人がいるのだろう?

私がその答えに到達するまでに、さらに半年近くの時間が過ぎました。

答えは、気づいてみればなんてことはありません。

それは、「聞く側が、こちらの英語を探ろうと、前屈みになって、聞こうとしてくれているかどうか」ということです。

当時の私の英語が下手で、発音もメチャクチャだ、ということを最初から知った上で、「一生懸命、こいつの言っていることを分かってあげよう」という思いを相手が持ってくれたなら、きっと通じるのです。

逆に、「きっとこいつもアメリカに来ているんだから、そこそこ英語は話せるんだろう」と相手が思ってしまっていると、ちっとも分かってもらえないのです。

「相手のことを知り、相手に耳を傾ける気持ち」

これがあるかないかで、ヘタな発音でも通じるか通じないかが全然違ってきてしまうのです。

たぶん、Ryanにはその思いがあったのでしょう。

ところが、クラスメート達は、私の英語力がどれほどか、まるで知らなかったのです。

その後、学校でも同じような現象が起きました。

家に来てくれたクラスメート達は、私のヘタな英語でも分かってくれるのに、ほぼ初対面の生徒たちにはまったく分かってもらえない。

「相手のことを知り、相手に耳を傾ける気持ち」というものがあるのか、ないのかで、これほど通じるか通じないかが違ってくるものなのか、と私は驚きました。

このことは、どのようなコミュニケーションにも言えると思います。

同じ日本人同士、同じ日本語同士であっても、「相手のことを知ろう」とか「相手に耳を傾けよう」という気持ちが欠落していれば、きっと分かりあえない。

その反面、異なる文化、異なる言語、異なる価値観であろうとも、「相手のことを知り、相手に耳を傾ける気持ち」があるならば、きっと分かりあえる。

国と国との話し合い、結婚した夫婦の会話、職場の上司と部下の会話など、どのコミュニケーションでもこれは当てはまることなのではないかと思います。

「バレーボール」という言葉は、今や私にこのことを思い出させてくれる言葉となりました。

今でも英語で「バレーボール」と発音する時には、ちょっぴり緊張します(笑)

そして、「volleyball」と発音すると、Ryanの幼く、屈託のない笑顔を思い出すのです。

 

<おしまい>