「勉強とは、楽しくやるべきだ」という主張をする人がいます。
皆さんは、この主張について、どう思いますか?
賛成?
それとも反対?
「勉強」に限らず、「自分が何かを身につけよう」としていることは、「楽しく」やるべきなのでしょうか?
<アメブロからの続きはここから>
私(久末)は、個人的には、「勉強というものは、元来、楽しいものではない」という考え方を持っています。
もちろん、そうは言っても、「勉強が楽しい」と感じたことがないわけではありません。
私は学生時代は「数学」が一番の得意科目でした。
定期試験の前に、数学の問題を解いている時などは、「正解を出す」ということが楽しく思えたものです。
しかし、スラスラと解くことのできない問題を解いている時は、それはもう「苦痛」でした。
私が一番苦手だったのは「歴史」です。
毎回、平均点を大きく下回っており、どうにも点数を伸ばすことができませんでした。
だから、苦手科目の歴史を勉強している時は、「楽しい」と思うことはありませんでした。
そう考えると、「得意な勉強は楽しい」けれど「苦手な勉強は楽しくない」ということになります。
勉強だけではありません。
「スポーツ」や「楽器演奏」や「図画工作」なども、「得意なことは楽しい」けれど「苦手なことは楽しくない」という図式が容易に想像できます。
たぶん、「苦手なこと」というのは、「最初から苦手」なのでしょう。
そして、「得意なこと」というのは、きっと「最初から得意」なはずです。
最初に「苦手」だと思ったことは、たいてい、努力しようとしても「楽しく」はありません。
楽しくないから、努力もあまりたくさんできません。
努力をしないから、いつまでも「苦手」から抜け出せません。
ところが、最初から「得意」だったことは違います。
「得意」だから、最初から「楽しい」わけです。
「楽しい」から、努力も惜しまず、どんどんやれます。
どんどん努力するから、さらに「得意」になっていきます。
では、「苦手」なことを、「得意」に変えるにはどうしたら良いでしょうか?
おそらく、「楽しくないけれどやる」ということを通り抜けなくてはならないはず。
自分が何かに取り組んでみた時に「楽しくない」と感じたことは、きっと「得意なことではない」のです。
得意ではないこと、つまりは「苦手なこと」を克服していこうとするプロセスの途中には、「楽しくない練習」というものがどうしてもついて回ります。
「苦手なこと」に取り組もうとして、「楽しくないからやらない」と言っているうちは、きっといつまでも「得意」にはなりません。
「楽しい」とか「楽しくない」というのは「感情」ですから、「感情」だけを基準にして「やる」か「やらない」かを決めているとしたならば、「感情」だけに左右される人ということになります。
大人になって、感情だけではなく、頭を使った「知性」というものが発達していけば、「楽しくなくても、これをやらなくてはならない」と考えることができるはず。
「勉強とは、楽しくやるべきだ」という主張は、「苦手」なことに取り組んだ場合には、当てはまらないかもしれません。
「楽しくないからやらない」とか「楽しくないから、他の方法を探そう」とか言っているうちは、いつまでもそのことが「楽しく」はならないのではないでしょうか。
「苦手なこと」であっても、「楽しくないけれど、得意になりたいからやる」という意識で取り組んでいるうちに、少しずつ「得意」になっていきます。
そして、少しずつ「得意」になってくれば、少しずつ、そのことが「楽しく」なるのだろうと思います。
「勉強とは、楽しくやるべきだ」ではなく、「勉強とは、苦手なうちは楽しくないかもしれないけれど、得意になるにつれて楽しくなるから、そうなるまでは、たとえ楽しくなくてもやるべきだ」と考えた方が、私は個人的には賛同できます。
<おしまい>