世の中には、「問う人」と「答える人」の2種類がいると思います。

「問う人」は、人にも自分にも「問う」ということをやる人。

「問う人」は、「問う」といっしょに「答える」ということも自分でやる人。

「問う人」は、1つの答えに満足しないで、続けて別の角度から「問い続ける」ことができる人。

「問う人」は、考える人。

「問う人」は、知識をつなげることで、未知の問題にも答えを出すことができる人。

「問う人」は、誰も知らないことに答えたり、誰も作ったことのないものを作ったりできる人。

ところが、「答える人」は少し違います。

「答える人」は、問われない限り答えない人。

「答える人」は、「答える」ことが専門の人。

「答える人」は、1つの答えで満足してしまう人。

「答える人」は、「考える」より「覚える」ことが得意な人。

「答える人」は、知識を頭の中でバラバラに保存することはできるけど、その知識を忘れたらもう答えられない人。

「答える人」は、知らないことは答えられない、見たこと無いものは作れない、ということを簡単に認める人。

社会に出てから必要とされているのは、「答えること」よりも「問うこと」です。

「問うこと」の方が、「答えること」よりも、遙かに難しいのです。

その証拠に、コンピュータは、「答えること」は得意でも、「問うこと」はあまり得意ではありません。

「問うこと」は、今はまだ人間の専売特許と言えるでしょう。

ただ、「問う」と一言で言っても、何をどのように問うかが問題です。

英語の疑問詞には、「疑問代名詞」と「疑問副詞」の2つがあります。

「疑問代名詞」は「who」「whose」「whom」「which」「what」の5つ。

「疑問副詞」は「when」「where」「why」「how」の4つ。

いずれも、「yes/no」では答えられない疑問文を作るための言葉です。

このうち、疑問代名詞の5つは、基本的に「知識」のみで答えられてしまうものと言えます。

「who(誰が?)」というのは、一度答えを聞けば、それ以上、追いかけて「who?」とは聞けません。「who」以外の疑問代名詞も同じです。

また、疑問副詞の「when」と「where」も、「知識」だけで答えられてしまいますから、一度答えを聞いた後で、さらに追加して「when」(あるいは「where」)とは聞けません。

しかし、疑問副詞の最後の2つ、「why(なぜ?)」と「how(どうやって?)」は違います。

「why」は、一度答えが得られても、それに対して、さらに「why?」と尋ねることができます。

「なぜ、あの店は繁盛していて、うちの店は繁盛していないのか?」という問いに対し、「あの店の料理は美味しいが、うちの店は美味しくない」という答えを自分で出したとします。

「問う人」は、ここでさらに追い打ちをかけ、「では、なぜあの店の料理は美味しくて、なぜうちの店の料理は美味しくないのか?」という問いかけをします。

「あの店のコックは、美味しい料理をつくる方法を知っているからで、うちのコックはそれを知らないから。」と答えたとしたら、今度は、「なぜ、あの店のコックはそれを知っていて、うちのコックはそれを知らないのか?」とさらに問いかけることができます。

「あの店のコックは、美味しい料理を作るために、何をどうすれば良いか、常に考えて、試して、失敗して、それでもめげずに継続してきたから、美味しい料理を作ることが出来る」と答えたとします。

このように、答えを得たとしても、さらに追い打ちをかけるようにして「なぜ?」と問いかけていくと、直面している問題の原因がどこにあるのかが見えてきます。

そして、「why」を使ってある程度まで原因を掘り下げることが出来たら、今度は「how(どうやって?)」の出番です。

「どうすれば、うちの店は繁盛するようになるだろうか?」
「どうすれば、うちの店の料理は美味しくなるだろうか?」
「どうすれば、うちの店のコックは、美味しく料理を作る方法を知ることができるだろうか?」
「どうすれば、うちの店のコックは、美味しい料理を作るために、何をどうすれば良いか、常に考え、試して、失敗して、それでも継続するようになるだろうか?」

こうやって、「how」を使って繰り返し「問う」ということをしている人は、次々と問題を解決していきます。

疑問詞の9つの中でも、とくに「why」と「how」を使って日頃から自分や他人に問いかけている人は、そうしていない人に比べ、「考える」や「新しいことを生み出す」ということをたくさん練習していることになります。

そういう練習をする人こそ、今の日本には必要なのです。

ところが、今の学校教育の現場では、「問う人」を育てようという試みよりは、「答える人」を育てようという試みの方が重要のようです。

そういう学校教育で満足のいく成績を残した人であっても、徹底して「答える専門の人」になっていた人は、社会に出てから非常に苦労します。

なぜなら、社会というところは、「答えること」ができるよりも、「考えて、新しいことを生み出すこと」に価値を見出すからです。

誰も答えを教えてくれない状況が、仕事をしていれば必ずあります。

誰も答えを教えてくれなくても、答えを出さなくてはならない状況が、必ずあります。

「答える人」は、「答えを知っていれば答えるけれど、答えを知らなければ答えられない」のです。

しかし「問う人」は、「答えを知らなくても、自分で問いかけ、考え、新しい答えを自分で生み出す」ということができるのです。

だから本当は、学校教育や、家庭での教育において、「答える人」ではなく「問う人」を育てる努力をすべきなのです。

しかし、「問う人」を育てるには、まず、教師や親自身が「問う人」にならなくてはなりません。

「問う人」を育てるために、自分も「問う人」になるための練習を続けていく。

「why」と「how」を使って、1つの答えに満足せず、日々、「問う」ということを繰り返していく。

そういうことを、教師も生徒も、親も子も、みんなが一斉にやるようになったら、もしかしたら、日本国内の問題だけでなく、世界中の問題がすっかり解決してしまうかもしれません。

「問う」という力は、健康な人間ならば誰でも持っています。

その力を使って、「問う」ということを練習していけば、必ず「問う力」は高まります。

そうやって「問う人」が増えることが、組織や国家の繁栄につながるのだと思います。