先日もこのブログで書いた「問う人と答える人」のテーマに関して、最近、またよく考えています。

「問う人」は「考える人」となり、

「考える人」は「新たなものを生み出す人」となります。

今の世の中、悪いことが起きたときに「誰々が悪い」とか「誰々の責任だ」という方向で議論が進んでいく場面が、あちこちのメディアで見られます。

メディアだけではありません。ネット上の個人の書き込みにも、類似した意見が目立ちます。

既に発生した問題を反省し、同じ過ちを繰り返さないようにすることはとても大切です。

しかし、大きな組織ほど身動きが悪く、世論やメディアが望むような方向に事態が進んでいかないこともあります。

そんな時に、「誰々が悪い」とか「誰々の責任だ」と言い続けるだけでは、結局は何も解決していきません。

「自分には何ができるか?」あるいは「自分は何を生み出すことができるか?」ということを自分に問いかけ、実行に移していくことが大事なのではないでしょうか。

人口1億2千万人ちかくの日本人の過半数が「責任を追及するだけで、自分は何もしない」のだとしたら、それこそ国家の存亡に関わりかねません。

今、日本に必要なのは、「責任を追及する」「他人を非難する」ということができる人なのではなく、「新たなものを生み出す」ということができる人なのです。

そういう人を増やし育てる努力を、国家全体、地域全体、組織全体で、みんなでやっていくことが大事なのだと思います。

そして、「新たなものを生み出す」には、最初の最初に「問う力」が必要なのです。

では、「問う力」を鍛えていくにはどうしたら良いでしょうか。

小学校、中学校、高校などの授業では、生徒に「問わせる」ような問題はほとんどでません。

普通は「教師が説明し、生徒が覚える」という授業スタイルのあとで、定期試験においては「教師が問題を作り、生徒が答える」というスタイルとなっています。

これをどうにかできないでしょうか?

例えば。

授業の時に、「教師が生徒に問いかけ、生徒が参考書などをたよりに教師に説明する」というスタイル。

あるいは、試験の時に、「教師が答えを与え、生徒がその答えになるような問題を作る」というスタイル。

「教師」と「生徒」の立場を逆転させると、生徒は自然と「問う力」が身について行くのではないでしょうか。

実は、デュープラー英語学院では長年、この2つのスタイルのうち、1つ目の授業スタイルを実践しています。

つまり「教師が生徒に問いかけ、生徒が文法書をたよりに教師に説明する」というスタイルです。

人に何かを説明するには、それを単に聞いて理解しようとするよりも、遙かに広い「知識」と深い「理解」がなくてはなりません。

「知識」は「覚える」という行為の先にあります。
「理解」は「考える」という行為の先にあります。

「知識」を高めるための授業は、今の普通の学校でもおこなわれています。

しかし、「知識」だけでは何かを「新たに生み出す」ということはできません。

必要なのは「知識」を使うための「理解」であり、「理解」をするための「考える力」なのです。

つまり相手に「説明を求める」ということは、相手に「考える」ということを求めるということになるのです。

小学校、中学校、高校などで、このような授業が展開されていけば、たくさんの子ども達が「考える」ようになるのではないかと思います。

はじめは「完全な説明」でなくても良いのです。

「説明しよう」と試みてはじめて、自分の中の「どの知識」や「どの理解」が足りなかったのかが分かるのです。

そして、改めて文法書などを自分で読み、足りなかった「知識」や「理解」を埋めてから、もう一度「説明」を試みる、ということを繰り返していくと、どんなに英語が苦手だという人でも、ほぼ全員が「理解していく」ことができるようになります。

そういうことをずっと実践しながら、最近また、私は「問う力」を鍛える方法について考えています。

それは、上で述べたうちの「2つ目」の方法です。

つまり、「教師が答えを与え、生徒がその答えになるような問題を作る」ということです。

例えば、「November」という言葉が「答え」となるような問題を「10個」作りなさい、という具合です。

答えが「November」となるような問題を10個出されて答えるよりも、
答えが「November」となるような問題を10個作り出す方が遙かに難しいのです。

「問う力」は、こうやって「問う」という練習をたくさんしていくことによって高められていくのです。

日本の学校教育の現場では、この「問う力」を育てようという部分が完全に欠落しています。

大学受験も同様です。

「問う力」を試すような問題が大学受験で出るようになれば、自然と高校受験も中学受験も形を変えていくしかありません。

私はなんとか、このようなスタイルの授業を形にしていきたいと思っています。

「問う力」を高め、「考える力」を鍛え、「新たなものを生み出す力」を養う。

それがひいては「英語」だけでなく、その人自身の人生、その人の周囲の環境、その人に関わる全ての人に、大きなプラスの影響を与えていくのだと思います。

「問う力」を高めるために何ができるのか。
皆さんも一緒に考えてみませんか?