「親」や「教師」から見れば、子供は子供、生徒は生徒、ということかもしれませんが、彼らもいずれは生徒ではなくなるし、少しずつ「大人」になっていきます。

子供や生徒が「いずれ大人になる」ということを想定した上で、未来において「役に立つ」ように導くことができなければ、それは本当の意味で「教育」とは呼べないように思うのです。

特に、先日ここのブログでも書いたように「覚える」と「考える」の2つの頭の使い方について、学校や家庭の教育論では「覚えなさい」ということの方が主流のようです。

これは、とてもおかしいことです。

「未来」において、子供達が大人になって、社会に出た時には、「覚えなさい」よりも「考えなさい」の方が求められるはずです。

子供の頃に「考える」ということをあまり練習してこなかった人が、大人になったら急に「考える」ができるようになるのでしょうか?

今までできなかったことが、全く練習もせずに、いきなり、ある日突然できるようになっていた、などということがこの世にあるのでしょうか?

そんなことがあれば良いかもしれませんが、そんなことが起こるのは本当に稀です。

実際、大人になっても「考えるのが苦手だ」という人もたくさんいます。

日本人の全人口のうち、「考えるのが苦手だ」という人は、大人も子供も含め、一体、どれくらいいるのでしょうか?

「教育」というものが何のためなのか、ということを考えるならば、それは「未来の日本のため」あるいは「未来の世界のため」ではないでしょうか。

「考える」ということができない人を増やしてはいけません。

「考える」ということができる人がたくさんいる国は、おそらく、いろいろな問題を次々と解決していけることでしょう。

「考える人」を増やすことが、未来の日本や世界のためだと私は強く思います。

だとしたならば、大人になって求められるであろう「考える」という練習を子供の頃からやるべきです。

 

では、仮に「考える」ということを子供達に練習させるのが大事だと思えたとして、それならば、具体的に何をしていけば良いのでしょうか?

本稿の冒頭でも述べたように、私はもう30年近くも「教育」というものについて考えて続けてきた人間ですし、曲がりなりにもその道のプロです。

一方、家庭の親たちは、教育のプロではありません。

それぞれ、親には親の、一人一人それぞれの専門分野があることでしょう。

そこで、ここでは、家庭の親を特にターゲットにし、「未来につながる教育論」として、「何をすべきか」あるいは「何をすべきではないか」ということを具体的に書いていこうと思います。

自分の子供に対する、独自の教育論に自信がある人はそれを貫けば良いと思いますが、自信がない人や迷いが生じている人などには、是非、30年以上教育について考え続けてきた人間の考察を参考にして頂ければと思います。

<続く>