そもそも「疑問」というものをどれくらい持つかどうか、ということは、人それぞれ個人差があるものです。
日常の生活の中で、より多くのことに対して「疑問」を持つ人とそうでない人、バラバラです。
さらに「疑問の深さ・程度」についてもバラバラです。
1つのことについて疑問に思ったとしても、それを深く掘り下げる場合もあれば、うわべだけであまり掘り下げていかない場合もあります。
普段から、数多くの事柄に対し、それぞれ深く掘り下げるようにして疑問を抱く人は、おそらく「自分自身」に対しても疑問を抱くことがあるはずです。
逆に、普段から、疑問に思うことがあまりない、あるいは疑問に思ったとしてもそれ自体がうすっぺらい、という人は、おそらく「自分自身」に対して疑いを持つことは難しいでしょう。
「疑問を持っている状態」というのは、言わば、「答えのない不安定な状態」です。
英文法で考えるならば、「肯定文」と「否定文」の2つは「答えの文」と言えますが、「疑問文」は「答えのない文」と言えます。
「肯定」と「否定」は、お互いが逆の関係にありますが、それでも「答えが出ている状態」という意味では同じです。
■これは私のペンです。=肯定文 → 答えが出ている。
■これは私のペンではありません。=否定文 → 答えが出ている。
「肯定」と「否定」も、答えが出ていて、足下がしっかりしている「地面」のようなものです。
一方、「疑問」は、肯定と否定の狭間を流れる「川」のようなものです。
疑問という川が流れていて、それを挟む両岸に「肯定」と「否定」がある、ということです。
川はものすごい勢いで流れており、不安定であり、気を抜くと流されてしまったり、溺れてしまったりします。そこにいるだけでも消耗し、疲れます。
たいていの人は、「不安定な川の中」にいるよりも、早く「安定した岸」に上がりたいと願います。
仮に、誰かから「疑問」を投げかけられたならば、それは「不安定な川の中」に投げ込まれたのと同じようなものです。
そして、「Yes」なのか「No」なのか、あるいは何かしらの「具体的な答え」が何なのか、といったことを疑問の川の中で探し始め、肯定か否定のどちらかの岸に辿り着こうとします。
肯定と否定のどちらであろうと、人は、答えがあるところに辿り着くと安心します。
もう川には戻りたくないと思うかもしれません。
しかし、世の中には、自分から「疑問の川」へ飛び込もうとする人がいます。
わざわざ不安定な川の中へ飛び込むだなんて、頭が悪いと思いますか?
いいえ、「疑問の川」へと自分から飛び込む人ほど、頭が良いと言えます。
逆に「肯定の岸」や「否定の岸」といった「安定の地」にずっといたいと願う人ほど、頭が悪い傾向にあります。
どうしてそうか?
「疑問」の「疑」は、「疑う」という字です。
自分が得た答えに対し、「本当にそうなのか?」と疑った時、人は再び、自ら「疑問の川」へと飛び込むのです。
「疑問の川」の中は、そりゃあ、不安定だし、疲れるし、つらいし、大変です。
しかし、そうした状況に長くいる人ほど、「頭を使う」ということをたくさんします。
その反対に、いったん自分が得た答えに対して何の疑いも持たない人は、「頭を使う」ということをしないで生きているようなもので、どんどん頭は悪くなっていきます。
今の日本の教育現場には、子供達に「自分が得た答えを疑いなさい」と言える教師がどれくらいいるでしょうか。
あるいは一般の家庭において、そのようなことを自分の子供に言い続けられる親はどれくらいいるでしょう?
「疑う」ということの重要性を感じず、「そら、これが答えだよ、これを覚えなさい」という具合に子供に接してしまっている大人が、日本には本当にたくさんいるように思います。
そういう接し方をされた子供は、素直な良い子ほど、どんどん頭が悪くなっていきます。
自分自身に疑いを持つ、だなんてことは一切やらず、結果的に「mustが減る」ということもなく、「ゆとり」を持てずに苦しんでしまう。
「ゆとり」を持てないから、「自分の利益」を優先にしがちとなり、「他人の利益」を真に考えることができなくなってしまう。
私達は、この国で、そういう人を増やしたいと思っているのでしょうか?
いいえ。
「自分の利益だけを考えるのではなく、他者の利益も考えることができる人」を増やしたいのではありませんか?
そうだとしたならば、まずは「大人」達自身が、自分が得ている答えを疑い、自ら「疑問の川」に飛び込んでみなくてはなりません。
たとえそれがどんなに不安定で、つらくて、大変なことだったとしても、です。
<つづく>