「伝える力」が弱い人の共通点の1つに、「自分の伝え方で十分だ」と思ってしまう傾向が見られます。

「自分は分かっている、だから相手にもこれで通じるはず」という理屈です。

自分の説明を聞いて、相手が「分からない」という顔をしたならば、それは自分のせいではなく、相手の理解力不足のせいだ、とでも言わんばかりの考え方です。

このような人は、要するに「自分の伝え方を過信している」のです。

逆に、「自分の伝え方で、本当に大丈夫だろうか?」といった具合に「疑いの目」を自分自身に向けている人ほど、たいていは「伝える力」も強いものです。

「自分自身に疑いを持つ」ということは、このシリーズを書き始めて割とすぐに書きましたね。
(過去記事はこちら→『日本の教育について考える(3)「自分自身に疑いを持つことは、なぜ難しいのか」』

自分の伝え方に対しても「疑いの目」を向けることができれば、そこから先は練習量に比例して「伝える力」もついてくるというもの。

教師や親は、自分の生徒や子供が、「自分の伝え方に疑いの目を持っているかどうか」ということを鋭く見抜く必要があります。

もちろん、教師や親自身もまた、「自分の伝え方」に疑いの目を持つ必要があるのは言うまでもありません。

これを書いている私も同じ。

自分で書いておきながら、きちんと、これを読んでいる人に、私が言いたいことが伝わっているだろうか?と思ってしまいます。

疑いの目を自分に向けながら、何度も読み直したり、書き直したりしながら書いていますが、最終的には「時間との折り合い」によって区切りをつけます。

時間との折り合いで、自分の満足が十分になっていなくても、とにかく書き終えるわけですが、書き終わった時には「不十分かも」という感覚がいつも残ります。

でも、そういう感覚が残る方が良いだろうとは思うのです。

教師や親が、自らそういう感覚を持つことが「日本の教育」には大切だろうと思います。

<つづく>