英語を教えていると、人から「先生」と呼ばれることがあります。

しかし、「先生」という言葉について改めて考えてみると、不思議だなと思うこともあります。

学校の教員については、自分が教えを受けているわけでもないのに「○○先生」という呼び方をします。

教員以外でも、医者、弁護士、政治家、作家、漫画家などにも「先生」という呼び方をします。

まあ、私(久末)は「○○先生」という呼び方に対して違和感があるわけではありません。

ただ、時々、「先生」という言葉について考える時、思い出すことがあるのです。

 

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私の母方の祖父は、辞書を編纂することを生業(なりわい)とする人でした。

私はよく覚えていませんが、母によれば、とても頭が良く、厳格であり、それでいて自由人だったとのことです。

その祖父は、出版社の人達から「先生」と呼ばれていたようです。

しかし、祖父は「先生」と呼ばれると、決まって次のように言ったそうです。

「わしは、先生と呼ばれるほど落ちぶれてはおらん!」

私は、なぜ祖父がそんなことを言ったのか、その意味が今もまだよく分かっていません。

普通、「先生」というのは相手への「敬意」を払って使われる敬称のはずですが、祖父は「先生」という言葉を自分に使われるのをひどく嫌っていたのです。

そんなことを言う祖父は変わり者だったのかもしれません。

しかし、「先生」という言葉を人が使うとき、そこには「心からの尊敬が伴っていない」ことがあるのも事実です。

教師だから、医者だから、作家だから、政治家だから。

ただそれだけの理由で、相手の機嫌を損ねないために、とりあえず「先生」と呼んでおこう。

「先生」という言葉は、そういう「下心」を含んだ言葉であるとも言えます。

そして、「先生」と呼ばれる側の人間もまた、「自分は先生と呼ばれるほどえらいんだ」とふんぞり返ってえらそうにしていることもあります。

祖父は、そうやって「先生」と呼ばれるだけで喜んでいる人達をたくさん見てきたのかもしれません。

「先生」と呼ばれて喜んでいる奴らも、「先生」と呼べば相手の機嫌を取れると思っている奴らも、みんな「落ちぶれて」いる、と思ったのかもしれません。

密教辞典や国語辞典などを編纂していた祖父が、「先生」という言葉に敏感に反応していたというのは、なんとも興味深い話だなと思います。

 

英語教師である私も、人から「先生」と呼ばれることがあるような立場にいます。

自分の中身を高めていく努力もせず、えらそうにふんぞり返って、「先生」と呼ばれるだけで喜ぶような、そんな「落ちぶれた」人にはならないようにしようと思います。

 

<終わり>