前回まで、「苦手なこと」を克服していくには「理性」による判断と行動が必要であると書きました。

そして「理性」というのは「思考力」と「忍耐力」を足し合わせたものであると書きました。

「思考力」があるから「耐える」ことができて、
「忍耐力」があるから「考える」ことができる。

「思考力」と「忍耐力」を高めることこそ、「理性的な判断や行動」につながると言えるでしょう。

「思考力」も「忍耐力」も、子どもの頃から鍛えられる環境に置かれていれば、自然と「理性」を高く持つことのできる人へと成長します。

ところが、子どもの頃から、そのような環境に置かれていなければ、大人になっても「理性」を高く持つことが難しいかもしれません。

では、そういう大人は、もはや打つ手無しなのでしょうか?

いいえ。そんなはずはありません。

大人になってからでも、人は成長できるものです。

「思考力」や「忍耐力」のない人、というのは、よほど健康上の問題がない限りは、ほとんど存在しないと言えます。

誰だって「思考力」や「忍耐力」を持っているのです。

ただし、「思考力」や「忍耐力」というのは、どのような事柄にも等しく発揮されるものではありません。

「好きなこと」や「得意なこと」に関しては、たいていの人は、持ち前の「思考力」や「忍耐力」を存分に発揮します。

逆に「嫌いなこと」や「苦手なこと」に関しては、人は途端に「思考力」や「忍耐力」を激しく低下させてしまうものです。

例えば、勉強は苦手でも、スポーツが大好きな男の子がいたとします。

この子は、スポーツをしている時には、多少、お腹が減ろうとも、疲れようとも、へこたれずに長時間の練習にも耐えることでしょう。

そして、そのスポーツ競技がどうすればうまくなるか、おそらく家に帰っても、ご飯を食べていても、ずっとそのことを考えることでしょう。

しかし、これが勉強となった途端、ちょっとお腹が空けば中断し、ちょっと疲れれば中断する、というように、なかかな忍耐力を発揮できません。

また、どうすれば勉強を継続できるのか、勉強して理解していくにはどうしたら良いかなど、ちっとも考えることはないでしょう。

つまり、「思考力」や「忍耐力」は誰もが持っている力ではあっても、それが発揮されることと発揮されないことに分かれる、ということです。

仮に、「好きなこと」や「得意なこと」に対して「思考力」や「忍耐力」を「100」という数値まで発揮していたとしましょう。

「思考力100」や「忍耐力100」というのは、相当に高い数値だとします。

ところが同じ人でも、「嫌いなこと」や「苦手なこと」に対しては、この「100」という数値が、一気に「10」とか「5」とか、あるいは「0」にまで下がってしまいます。

せめて、「好きなこと」や「得意なこと」に対して発揮している時の半分、つまり「50」くらいにでも「思考力」や「忍耐力」を発揮できれば、「嫌いなこと」や「苦手なこと」を克服していく可能性が大いに出てきます。

しかし、人間誰でも、「嫌いなこと」や「苦手なこと」に対峙している時に、そこまで「思考力」や「忍耐力」が低下しているということをなかなか「自覚」できないものです。

だから、大人になって「嫌いなこと」や「苦手なこと」に対峙する機会があったとしたなら、「自分の思考力や忍耐力が著しく低下している」ということを「自覚」すると良いのです。

そして、「好きなこと」や「得意なこと」に対峙している時に、「思考力」や「忍耐力」がどれだけ発揮されているかを思い出してみると良いでしょう。

もう大人なのですから、自分で「嫌いなこと」や「苦手なこと」を克服していくには、なんとか自力で「思考力」や「忍耐力」を高める努力をしなくてはなりません。

「自分には思考力がない」とか「自分には忍耐力がない」と諦めるのではなく、どちらも元々自分に備わっている力であることを認識することが大切です。

そして、どんな力でもあっても、人間、意識して、繰り返していけば、必ず高まるものです。

「思考力」も「忍耐力」も、練習次第でいくらでも高めていける、そう信じることが大切なんだと思います。