皆さんには「師匠」と呼べる人はいるでしょうか?

自分が今やっていることで、その基本となるものを教えてくれた人。

あるいは、直接教えてくれたのでなくても、自分がやろうとしていることに関して、身をもってお手本となり、方向性を示してくれた人。

私にはいます。

その師匠は、私が英語を教えるようになるきっかけとなってくれた人です。

今、デュープラー英語学院を自分で開いてやっていられるのも、その師匠との出会いがあったおかげといえます。

ですが、恐らく、その師匠にはもう二度とお会いすることはないでしょう。

「師匠」と呼べる人は、自分の近くにいるときにはもちろん、目の前からいなくなった後ですら、大きな影響力となって自分の人生に関わってきます。

いやむしろ、「いなくなった後」の方が、多くのことを教えてくれるような気がします。

師匠がよく言っていた言葉。

師匠がよく実践していた行い。

師匠がよく描いていた夢や思い。

それらが、師匠がいなくなった今になって、深く、自分の心に刻まれることがあります。

「あの時の師匠のあの言葉は、そうか、こういうことだったのか!」

というように、今頃になって深い理解となってやってくることがあるのです。

一方、「教師」のような仕事をしていると、今の目の前の「生徒」に全てを伝えられないことに苛立ちを覚えることもあります。

何度も繰り返し伝えようと努力しても、

何度も形を変えて表現しようとしても、

相手にとっての「理解」とはならず、通じないことがあるのです。

そんなことを繰り返していると、自分の表現力に限界を感じてしまいます。

自分は、伝えるのがなんて下手なんだと、自分の力のなさに嫌気がさします。

そんな時、自分の「師匠」も同じだったのではないかと、ふと思い出します。

師匠も、その時の私に繰り返し伝えようと努力してくれた。

師匠も、その時の私に形を変えて表現しようとしてくれた。

そういう師匠の努力に対して、その時の私は報いることはできなかったけれど、

師匠がいなくなった今になって、ようやく、少しでも理解できたかなと思えるようになった。

そう考えると、たとえ今、私が生徒達に伝わらないもどかしさを感じたとしても、焦る必要はない、とも言えるのですよね。

今すぐ伝わらなくても、「きっといつか伝わるはずだ」と信じることが大切なのではないかと思うのです。

少なくとも、生徒が諦めるより先に教師が諦めるような、そんな教師にはなりたくありません。

教師は、力の続く限り、生徒に伝え続け、お手本を示し続けなくてはならないと思います。

それが、師匠の努力に報いる、唯一の方向性なのだと思うのです。