例えば、英文法の「文法書」を使って勉強している生徒Aと、英文法を教える教師Bがいるとします。

生徒Aは、まずは「自力」で文法書を読んで理解しようとしますが、なかなかうまく理解できません。

理解できないということは、そもそも、その文法書に書かれている説明が難解なのでしょうか?

そういうケースもあるでしょうけれど、仮に、「他の同年代の、平均的な能力の生徒達のほとんどが理解できる」のだとしたら、それは文法書の問題ではありません。

それは、生徒Aの「理解力」の問題です。

ここで、仮に、教師Bが手助けをしたとしましょう。

文法書に書かれている説明は、「平均的な読解力」や「平均的な理解力」があれば理解できるものです。

そこに教師Bは、「読めば分かる」ような内容の文法書を、さらに「分かりやすく」説明します。

そして、教師Bの「分かりやすい説明」によって、ようやく生徒Aが理解できたとします。

はい、めでたしめでたし。

 

 

………果たして、これで問題は解決したのでしょうか?

生徒Aは、教師Bによる「分かりやすい説明」があったおかげで理解に至ったわけですが、本当ならば、「他人の手助けなしに理解できるようになる」ことの方がよっぽど重要ではないでしょうか。

教師Bは、目の前に「理解できなくて苦しんでいる生徒」がいたから、自分の「分かりやすい説明」によって「助けた」と思っているかもしれません。

同様に、生徒Aもまた、教師Bの「分かりやすい説明」のおかげで理解することができたので、「助けてもらった」と思っていることでしょう。

しかし、極端な言い方をするならば、生徒Aの理解力はちっとも上がっていない、ということになります。

『教師Bは「分かりやすい説明」をしてくれるいい先生だ、だから、この先生にずっと教えてほしい。』

そう思ってしまったら最後、もはや生徒Aは、教師Bなしでは、他の平均的な能力が理解できることを、いつまでも経っても自力で理解できるようにはなりません。

 

教師Bは、「分かりやすい説明をしようとする努力」よりも、「生徒Aの理解力を上げる努力」をしなくてはならなかったのです。

仮にその生徒が大人になって、社会に出て、何かの仕事を「自分だけで」こなさなくてはならなくなった時のことを考えてみましょう。

他人からの「分かりやすい説明」がなければ一人前に理解できない人は、もしかしたら大人になってもその癖が抜けず、仕事を一人でこなしていけるようになるまでに、他人よりも長い時間がかかってしまうかもしれません。

教師は、「目の前の問題」さえ解決できれば良いと考えるのではなく、生徒が「自力」で問題を解決するにはどうすれば良いか、ということに重点を置いて考えるべきだろうと思います。

「分かりやすい説明」を求めてくる生徒には、なおさら、教師の方にそういう意識が必要になります。

「分かりやすい説明」を求めてくる生徒は、多くの場合、自立しておらず、基本的に甘えん坊です。

そして、自立していない甘えん坊は、「平均よりも理解力が低い」ということがよくあります。

教師が「分かりやすい説明」を与えてしまえば、自立していない甘えん坊は、ますます自立せず、ますます甘えてきますので、ますます「理解できない」という状況にはまってしまいます。

だから教師は、「分かりやすい説明」というものは、「相手を見て、ほどほどに提供する」というコントロールをしなくてはなりません。

「分かりやすい説明」をいくらしても、生徒の理解力が上がっていかないのだとしたならば、それは「分かりやすい説明」をしてしまっていること自体が原因なのかもしれないのです。

 

<おしまい>